偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
10.偽装関係の終わり



 マンション付近で登を見かけることが多くなった。

 ほとんどはマンションを出て行く姿だが、たまに顔を合わせると勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

 登本人への苛立ちよりも、自分の不甲斐なさに呆れる。

 りととは社内で顔を合わせても背けられていた。

 どこで登に見られているかわからないから、迂闊に近づけもしない。

『理人さんはお忙しい方ですの。しつこくお電話などしてはご迷惑でしょう? 私《わたくし》、あなたと違って弁えてますのよ?』

『そんなことを言って、無視されているのでは? この俺が見合いの場まで整えて差し上げたというのに、ご自慢の美貌とベッドでのテクニックが通用しなかったなんてことはありませんよね?』

『まさか。理人さんは思慮深く、道理と礼儀を弁えていらっしゃるの。よくいる、涎を垂らして腰を振るだけのバカ犬とは違いますわ。最後まできちんと女性を導いてくださいますの』

『とにかく! さっさと妊娠するなり婚姻届を出すなりしてください。ああ、近々私の妻の部屋が空くんです。お使いになりますか?』



 りとの部屋が空く……。



『ふふっ。結構ですわ。理人さんのお部屋の合鍵をいただける日が近いので』

『一日も早く、あなたの想いが報われることを願っていますよ』

『私も、あなたが無事に奥様だった方を取り戻せることを祈っておりますわ』

 ポロンッと、通話を終える軽やかな電子音が聞こえた。

『無理でしょうけれど』

 すぐに、今度はカチッとクリック音。

『年増の淫乱女が! 上も下も涎垂らしてんのはお前だろ』

 こもった、男の声。

「おい、これ――」

「シッ」

 欣吾に向かって、口元で人差し指を立てる。

『ふふっ。五分ともたない早漏が、随分とイキがってますわね』

 今度は、男の声より鮮明な女の声。

『どうしてこんなバカ犬の妻になどなったのでしょうね、如月さんは』

 珍しく、姫の意見に同感だ。

『まぁ、誰にでも気の迷いはありますわね。やり直したい、過去も』

 心なしか、さっきまでよりも鮮明な声。

 微かに、コンコンとドアをノックする音。

『はい』

 クリック音、そしてパタンと、恐らくノートパソコンを閉じる音。

『姫、少し話をしてもいいか?』

『ええ、お父様』

 ガサガサッとノイズが入るが、すぐに消えた。

『先日のお見合いの件だが』

『はい』

『本当に彼と結婚したいのか?』

『どうしましたの? 私はいつも――』

『――最近、調査会社を使ったそうだな。俵秘書について調べたのかと思ったが、違うらしいじゃないか』

 ふふふっと姫のわざとらしい弾んだ声。

『お父さまの秘書は有能ですわね。理人さんも負けないくらい有能ですが』

 ふぅっとため息。

『姫、私は心配しているんだよ。これまではお前の望むようにさせてきたが、いい加減――』

『――これで最後ですわ』

 初めて聞く、姫の低くて落ち着いた声。

『え?』

『お見合いも、お父様への我儘も、これで最後です。もう二度と、離婚届を書くつもりはございません』

『それは、どういう――』

『――お父様と只野物流に被害をもたらすことはいたしません。どうか、私の最後の我儘を許してください』

『姫。お前を咎めているわけではないよ。心配なんだ。最初の結婚の後――』
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