偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~

 甘いミルクの香りがする。

 柔らかくて温かい毛先にくすぐられる感触までしてくる。



 重症だな……。



 はぁと息を吐くと、もやっと白く小さな雲が舞い上がった。



 寂しい、ってこういう気持ちなのか。



 自分には縁のない感情だと思っていた。

 会いたい、声が聞きたい、触れたい。

 そんな感情、バカにすらしていた。

 父娘の姿がすっかり見えなくなって、俺はマンションへと踏み出した。

 歩くたびに紙袋がカサカサと鳴る。

 土曜の夜。

 りとと力登はどうしているだろう。



 登が、来ていたりするんだろうか。



 考えるだけで、喉の奥が熱くなる。

 マンションの前にもエントランスにも、登の姿はなかった。

 良かった。

 今は会いたくない。

 いつものように冷静を保てる気がしないから。

 ほうっと気を抜いていた俺は、エレベーターの扉の向こうに現れたりとの姿を見て、瞬きを忘れた。

 グレーのパーカーにジーンズ姿で、床に置いた大きなゴミ袋を掴もうとしている。

 りとは、俺を見るなりパッと顔を背けた。

 さすがに、傷つく。

 同時に、ムッとした。

「こんな時間にゴミ出し?」

「……はい」

 よいしょ、と声が聞こえてきそうなほど重そうにゴミ袋を持つりと。

 俺は、袋ひとつを奪い取り、持っていた紙袋を彼女に押し付けて、もうひとつのゴミ袋もりとの手から持ち去った。

 有無を言わさずにゴミ置き場に歩き出す。

「ちょ――」

「――断捨離か?」

「……」

 俺の少し後ろをついてくるりとからの返事はない。

「それとも、引っ越しか?」

「……っ」

 登が言っていた。

 りとの部屋が空く、と。

 脅して囲い込むつもりだろう。

「力登は?」

「……」

「元気?」

「はい」

「今は?」

「……」

「冷たいな」

 ゴミを置き、ふぅっと息を吐き、エレベーターに戻る。

 その間、りとは息を潜めて後をついて来た。

 俺は、振り返らなかった。

 ゴミを置いて引き返す時、横目でチラリと窺ったが、彼女は気まずそうに顔を背けていた。

 困らせたいわけじゃない。

 苦しめたいわけじゃない。

 ただ、ひと言欲しいだけだ。

『助けて』と。

 律儀に俺たちをじっと待っていたエレベーターに乗り込む。

 戸惑い、乗らずに足を止めたりとの腕を掴んで引き入れた。

「ちょ――っ」

 腕を引かれ、強制的に俺の胸に飛び込んできたりとの腰を抱く。

「会いたかった」

「やめて!」

 彼女の手が俺の胸を押し返す。

 くるりと身体を翻して逃げようとするりとを背後から抱きしめた。

 抵抗のつもりか、彼女はドアが閉まるなり七階のボタンを押した。

「離して!」

「どうして」

「どうしてって――」

「――恋人を抱きしめて何が悪い?」

「もう、違う!」

 りとがジタバタして、振り回される格好になった紙袋が俺の膝にぶつかる。

「いって――」

 本当はそれほど痛くない。

 ただ、りとが大人しく俺の腕の中にいてくれたらいい。

「ごめんなさい! 大丈夫?」

 大人しくなったりとを、もう一度抱きしめる。

「りと」

「もう、やめて。もう、恋人じゃない」
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