偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
エントランスに響いた俺の声は、自分が思うより太く、低い。
彼女も驚いたようで、目も口も丸くしている。
社長秘書である俺は、他企業の社長令嬢に対して感情的になってはいけない。
「小間使い!? 私は秘書の仕事を誇りに思っています。それを――」
「――パァ!」
ピリッと張り詰めた空気が、透き通るような高音でパァンッと弾かれた。
「パァパァパァッン!」
声のする方に顔を向けたのは、俺だけじゃなく只野さんも。
ドアが開いているエレベーターの前から、少し不安定に、でも勢いよく、男の子が駆けてくる。
一歳から二歳くらいだろうか。
全体的にムチムチして、まるいフォルム。
「パパパパンッ!」
とにかく『パ』を連呼しながら、真っ直ぐ俺に向かってくる。
そして、ちょうど俺の足元、落とした買い物袋のそばで躓いた。
おっと思った瞬間には、只野さんの腕を振り解いてしゃがみ込み、子供を受け止めた。
「大丈夫か?」
「だじょ!」
子供は満面の笑みでそう言うと、ぴょんっと飛び跳ねた。
危なっかしくて、子供の脇に手を差し込み、支える。
「だっこ!」
「は?」
「だっこ!」
子供は何度もその場で飛び跳ねる。
抱っこするのはいいが、見ず知らずの子供を抱き上げて、子供の親に文句を言われるのは避けたい。
「お前、ママは?」
「まぁま!」
子供が首を回す。
子供の背後を見て、思わず「は?」と声に出してしまった。
如月りと。彼女がこっちに向かって歩いてくる。
同じマンションに住んでいることはわかっているんだから、休日に顔を合わせる可能性があることはわかっていた。
三週間もの間、会わずにいられたことが不思議だったのだ。
だが、まさかこんな形で顔を合わせてしまうとは。
「理人さん! その子供は? お知り合い?」
見上げると、只野さんが眉をひそめ、唇の端をひん曲げている。
お嬢様であろうとなかろうと、女性のこんな表情をみることは、そうない。
「お邪魔してごめんなさい。力登おいで」
りきと?
「りきと?」
俺が子供の名前を確認するより前に、只野さんが聞いた。
如月さんが只野さんに向かって会釈した。
「こんにちは」
「どなた?」
「私は如月と申します。大事なお話し中に、息子がお邪魔してしまってすみません」
「息子さん? りきとくんと……おっしゃるの?」
只野さんが子供をじっと見る。
「りきと……理人……」
子供に向けた視線が、俺に向けられる。そして、また子供へ。
奇妙な偶然だが、俺と子供の名前が似ていることで、どうやら只野さんは子供が俺の子供ではないのかと疑っているのだろう。
「力登、おいで」
如月さんが子供に向かって手を伸ばすが、子供はイヤイヤと首を振る。
「り~き!」
「イ~ヤ! 抱っこ!」
またぴょんっと飛んで抱き上げろとアピールする子供に、如月さんは困り顔。
俺は子供を支えている脇の手に力を込めて、立ち上がる。
左腕に座らせるようにして抱きかかえた。
「たかい!」
子供は如月さんを見下ろし、得意気。
子供は、ほんのりミルクの香りがした。
甘くて、石鹸のような香りが。
子供の大きさからして、もうミルクは飲んでいないだろうに。