偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~

「登。誓約書にサインしなさい」

「嫌だ! 俺はりととは別れない!」

 どこまで自分勝手というか、妄想に取り憑かれているのか。



 りとはとっくにお前の(もん)じゃねぇ!



「西堂登さん」

 ずっと黙っていた皇丞が、登の名を呼んだ。

「今、誓約書にサインして私の秘書から一切手を引かなければ、一時間後にはあなたの犯罪が全国ニュースで流れるでしょう」

「脅すつもりか!」

「ええ、そうです。あなたが私の秘書にしたことでしょう? 犯罪者の父親のことを俵にバラされたくなければ、我が社を退職して自分と再婚しろ、と」

「――っ!」

 りとを見る。

 彼女は俺を見て、すぐに顔を背けた。

「俵の祖父が検察官であったから、犯罪者の娘であるりとさんが俵の家族に認められるはずがない、とも」

「なんとも、みくびられたものだ」

 声の主は、穏やかな表情と口調で言った。

「検察官とは犯罪者やその家族にとっては敵も同然だが、逆はそうではない。罪を悔い、償い、更生してほしいと願っているのだが」

 少し腰を曲げて杖を突いていた声の主は、ゆっくりと腰を伸ばした。

 近衛憲司(このえけんじ)、八十八歳。

 俺の、母方の祖父だ。

「まして、彼女は被害者だ。そして、今、この場での加害者は、あなただ」

 俺にとっては気のいいじいさんだ。

 だが、殺人犯をも説き伏せるその毅然とした口調と眼力は、登ごときに耐えられる圧ではないだろう。

 事実、登はギネスに挑戦できそうなほどの高速で瞬きをするばかり。

「うちの孫の幸せを邪魔しようと言うなら、検察官歴三十数年の全てを以てお相手させていただこう」

 どこかで聞いた台詞。

「その際は、トーウンコーポレーションも敵に回すつもりで」

 社長もまた、いつものへっぽこではなく、敏腕経営者の顔で言った。

「私の大事な秘書を愚弄したこと、墓場まで忘れないよ」

「登、サインしなさい」

「……っ」

 母親の涙声に、登はふらふらと立ち上がる。

 りとが誓約書を差し出し、登がそれに手を伸ばす。

「これを使って」

 哉華がどこから取り出したのか、クリップボードとボールペンを差し出した。

 登より先に誓約書をりとの手から引き抜くと、クリップボードに挟み、登に渡す。

 哉華は随分と楽しそうだ。

 そもそも、哉華は呼んでいなかった。

 どこから聞きつけたのか、自分だけのけ者なのはどういうことかと睨まれた。

 面倒を避けたくて、顔出しなしの司会を頼んだのに、まさか登の両親を引き連れて登場するとは。

 実は哉華、りとが美容室に行った後からしつこく電話をしてきては、りとに会わせろとうるさかった。

 哉華がりとを気に入ったのは良かったが、りとと会えずにいた俺にはこの上ないストレス。

 とにかく、哉華から手渡されたクリップボードとペンを握った登は、ようやく紙にペンを走らせた。

「う……っ」

 登が唇を捻らせ、震わせる。

 子供が泣きだす時のように、ゆっくりと目を(しばた)く。

 そして、ペンを持つ手が止まった時、登の目から溢れた涙がぽたりと誓約書に落ちた。

 だが、そんな登には目もくれず、サインを確認した哉華が登の手からクリップボードを奪い取る。

 りとのホッとした表情を見て、ようやく全てが終わったのだと思った。

「しっちょー!」

 突然大きな声で呼ばれ、ずっと力登の耳を塞いだり離したりをしていたことを思い出し、手を下ろした。

「ああ、ごめん。力登――」

「――ママきれーね!」

 耳に違和感があるのか、やけに大きな声で言う。

「そうだな」
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