偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~

「……」

「りと、後で――」

「――りとさん、婚姻届(それ)を借りてもいいかな?」

 じーさんが言うと、りとが婚姻届を渡した。

「じーさん、何を――」

「――哉華。それを」

 哉華は手に持っていたクリップボードから誓約書を引き抜くと、ボードをじーさんに手渡す。

 じーさんは哉華に杖を預け、ボードの上で婚姻届を広げた。

 それから、スーツの内ポケットから万年筆を取り出す。

 じーさんは俺に法曹界を目指して欲しかった。

 たとえ叶わなくてもいいと言われて、意味がわからなかった。

 もちろん、俺は気にも止めなかった。

 トーウンに就職して初めての給料日に父親から、じーさんの気持ちを聞いた。

『理人。お義父さんは自分の仕事に誇りを持っていたから、孫の誰か一人くらい『おじいちゃんのようになりたい』と言ってくれると期待してたんだよ』

 父親が息子に期待するならまだしも、と思った。

 哉華は理性的な性格ではない。

 怜人は争いを嫌う穏やかな性格で、法曹界には向かない。

 だから、俺だったんだろう。

 俺は初給料でじーさんにプレゼントをした。

 それが、あの万年筆。

 それ以来、じーさんはいつもどこに行くにも、万年筆を手放さない。

 その万年筆で、証人の欄が埋まっていく。

「勝手をしてすまないね。生い先短い年寄りの我儘を許してくれるかな」

 じーさんはボードごと婚姻届をりとに返す。

 りとはやはり俯いたまま。



 早まったか……。



「りと、それは俺の勝手な――」

「――私も書きたいわ!」

 空気を読めない母さんが、両手を合わせてお願いのポーズでりとに近づく。

 頭が痛い。

「母さん、今は――」

「――華純。りとさんにも大切な人がいるはずだ。もう一人は――」

「――お願いします」

 母さんを窘めようとした父さんの心配をよそに、りとがボードを母さんに渡す。

「いいの? ありがとう!」

 母さんがテンション高めにボードを受け取るが、書くものがなくてじーさんを見る。

 じーさんは既に万年筆をしまっていて、貸す気はなさそうだ。

 というか、じーさんは誰にも万年筆を貸さない。

「お母さん」

 哉華がボールペンを差し出すが、母さんは受け取らない。

「いやよ。あんな男が触ったものなんて」

 母親のこんな姿を見ると、よく三人も子供を産んだなどつくづく思う。

「華純、そんなことを言うものじゃないよ。力登くんのお父さんなんだから」

「力登くんのパパは理人でしょ? 一人いれば十分よ。ね?」



『ね?』って……。



 聞かれた力登はキョトンとした顔で母さんを見上げている。

「これを使ってください」

 母さんにボールペンを差し出したのは、りと。

 パーティー用の小さなバッグにボールペンを入れて来るなんて、相変わらず抜かりない。

「ありがとう」

 父さんがボードを持ち、母さんが記入していく。

 全く、こうして父さんが母さんを甘やかすから、母さんが大人になりきれないまま還暦を迎えてしまった。

 年齢のことを言うと面倒なことになるから言わないが、一度いじけたら機嫌が直るまでが長い。

 年々、長くなるのは年齢のせいか。

「はい、書けた! あとは妻の欄だけね」

 母さんが上機嫌でボールペンをりとに返す。

 りとはそれを受け取り、バッグに戻した。

「書かないの?」

「はい」



 え――っ?!


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