偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
「よかったら、少し遊び相手をしましょうか」
「え?」
如月さんが聞き返す。
「さすがに、この状態で帰るのは心苦しいですし」
「でも……」
「しっちょーと遊ぶ」
力登が顔を上げる。
俺の首は力登の涙と涎でベトベトだ。
「俺ん家、来るか?」
「さすがにそれは申し訳ないので、室長さえよければうちでお好み焼きを食べていかれませんか? 私、作るので」
気は進まないが、これ以上玄関ドアの前であーでもないと言うより、早く力登を満足させて解放されたい。
どうしてこうなったかと言えば、全ては只野姫のせいだ。
俺は力登の頭をぽんぽんと撫で、彼女の部屋に足を踏み入れた。
玄関に男物の靴がないことを確認し、力登を下ろす。
如月さんが力登の靴を脱がせた。
タオルを借りて首を拭くと、力登も真似して顔を洗った。
「しっちょー、パパン!」
「今食べたら、お好み焼きが食べられなくなるぞ?」
「だじょ!」
「半分だけな?」
「おっけー」
通されたリビングでソファに座り、力登を膝にのせてパンの袋を開ける。
案の定、パンは潰れていた。
「子供に慣れてるんですね」
如月さんが、俺用にグラスに入ったお茶と、力登用のストロー付きマグをテーブルに置いた。
「年の離れた弟の世話をしたことがあるので」
「そうですか」
部屋の間取りは、俺の部屋と同じだった。
だが、柔らかいフロアマットに角が丸いローテーブル。茶の伸縮性のあるタオル地のカバーがかかった低いソファが置かれたリビングは、子供のいる部屋そのもので、俺の部屋とはまるで違う。
カーテンも薄いグリーンで、部屋が明るく感じる。
ダイニングにテーブルセットがないところを見ると、ローテーブルで食事するのだろう。
部屋の隅に、子供用のパイプ椅子があり、くまのぬいぐるみが座ってこちらを見ていた。
変な気分だ。
会いたくなかった年上の女性は俺の部下になり、その彼女の部屋で、彼女の子供を膝にのせている。
全部、只野姫のせいだ。
「諦めてくれましたかね、只野さん」
如月さんがキッチンから言った。
ザックザクとキャベツを切る音が聞こえる。
「さすがに諦めてくれたと思うんですけど」
「引っ越したのも彼女のせいですか?」
「そうですね」
「力登を室長の子供だと勘違いしていましたし、さすがにこれ以上は通報される危険もあるとわかると思いますが、彼女の経歴を考えると安心はできませんね」
「経歴? ああ……」
只野姫は離婚時に接近禁止を約束させられている。
何をしたかの詳細まではわからないが、それ相応の何かを仕出かしたのだろう。
如月さんの言う経歴とは、そういったことだろう。
急に膝の上が重くなり、視線を落とすと、力登がパンを咥えたままうとうとしていた。
見られていることにも気づかず、力登はそう長くかからずに寝息を立て始めた。
如月さんはキッチンで、ボウルに入れた粉や具を混ぜ合わせていて、こちらの様子に気づいていない。
俺は力登の手からパンを抜き取り、ゆっくりと脱力した身体をソファに横たわらせた。
「寝ちゃいました?」
如月さんがこちらを見て、手を洗う。
「口の中にパンが残っているので、取ってあげてください」
「はい」
彼女は息子の口に人差し指を差し込み、溶けかけたパンを取り出す。
「では、私は失礼します」
俺は立ち上がり、クイと眼鏡のブリッジを上げた。