偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
髪はセットしていないしスーツでもない。まして、べっ甲フレームの眼鏡だ。いつもの仕草がしっくりこない。
だが、彼女を前に、無意識にそうしてしまった。
今更だが、随分とみっともないところを見せてしまった。
「お好み焼き、食べていかれませんか?」
如月さんも立ち上がる。
彼女もまた会社とは違うラフな格好にエプロン姿で、髪は少し毛先が外に跳ねている。
ふよふよと揺れるその毛先に触れられたら、きっとくすぐったいんだろうなと思った。
そして、思っただけなのに、なぜかくすぐったくなった。首筋が。
なにを――、想像してるんだ!
彼女から目を背ける。
「いえ。力登くんが起きたら、一緒に食べてください。では、お邪魔しました」
如月さんの横を通ると、甘い香りがした。
力登と同じ、ミルクの香り。
きっと、シャンプーかボディーソープの香りだろう。
聞いて、確かめてみたくなったが、やめた。
足早に玄関に向かうと、彼女が後に続いた。
「ありがとうございました」
片足をスニーカーに突っ込みながら、そう言われて振り向く。
「パンとか、お好み焼きとか。子供の相手までしてもらって」
「いえ。こちらこそ助けられましたから」
如月さんがふわりと微笑む。
不覚にも、可愛いなと思ってしまった。
苦手な、年上で賢くて子供もいる女。
即座に背を向ける。
「お邪魔しました」
勢いよくドアを開け、飛び出す。
少しだけ。ほんの少しだけ、力登が目覚めた時に俺がいなくなっていたらまた泣くのではと思ったが、そんなことを気にする義理はないと自分に言い聞かせた。
「りと!」
廊下に男の声が響き、見ると、エレベーターからこちらに向かって、男が駆けてくる。
四十歳前後だろうか。カジュアルスーツを着た小柄な男は、唇をひん曲げて俺を睨みつけた。
「なんだ、その男は!?」
如月さんが部屋を出て、ドアを閉めた。そして、ドアに背を預ける。
もたれかかるというよりは、立ち塞ぐような姿勢。
「登さん」
登?
彼女が男の名前らしい言葉を呟き、ああ、と思った。
恐らく、力登の父親だろう。
力登に似ている、とは思わないが。
「お前っ! 子供がいるくせに男を連れ込んでるのか!」
登は俺を手で押し退けると、如月さんに詰め寄る。
「それでも母親か!」
声がでかい。
事情はわからないが、この男が如月さんの夫ならば、立場が悪い。
誤解のないように説明すべきか。
「どうしてここがわかったんですか」
「そんなこと、どうだって――」
「――どうやって入ったんですか!?」
「どうだっていいって言ってんだろ!」
登が顔に唾がかかりそうな距離で如月さんを怒鳴る。
「お前が俺の親と連絡とってんのはわかってんだ! ちょっと調べたら――」
「――ご両親はこのことをご存じで――」
「――うるさい! お前はそうやって、いつも俺を蔑ろにするが、力登の父親は俺だ。俺の親は関係ないだろ!」
登が如月さんの顔のすぐ横のドアをドンッと叩いた。
彼女は目を瞑り、肩を竦める。
「おいっ! やめろ!!」
痴話げんかだとしても見過ごせず、俺は登の後頭部に向かって声を荒げた。
だが、次の言葉を発する前に、如月さんが顔を上げた。
目を見開き、唇を震わせ、登をキッと睨み上げる。
だが、強気に見えるその瞳に涙の膜が、俺には見えた。