偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
 ギクリと身体が強張るのと、記憶がよみがえったのはほぼ同時。

 思い出してしまえば、気づけなかったのも当然だと思えるほど様変わりしている彼女に、驚きを隠せない。

 声で思い出した。

 甲高いのに少し(しゃが)れた声。

 さっきは興奮気味だったし、俺も驚いたからわからなかった。

「何度もお電話したのに繋がらないんですもの。来てしまいました」

 グイッと腕を胸に押し付けられる。

只野(ただの)さ――」

「――(ひめ)って呼んでください!」

「申し訳ありませんが――」

「――仕事の場では口説けないと仰ったから、会社に電話したりお伺いするのは控えたのです。(わたくし)、そのくらいの分別は心得ておりますので」

 皇丞が言った通り、マジで話が通じない。



 声、かけるんじゃなかった……。



 二か月ほど前に開かれたパーティーで、俺はロビーで蹲っていた女性に声をかけた。

 あくまでも、善意で、人助けのつもりだった。

 会いたくない人がいるから隠してほしい、と震える声で言われたから、肩を支えながらホテルを出て、タクシーに乗せた。

 礼を言われ、名前を聞かれたが、答えなかった。

 ずっと俯いていた彼女が顔を上げたのはその時が初めてで、俺は彼女が誰なのかを知っていたから。

 関わりたくなくて『人として当然のことをしたまでです。名乗るほどのことではありません』と、暗に聞いてくれるなと告げたのだが、全く伝わらなかった。

 結果、タクシーの運転手に行き先を告げないのなら降りろと言われてしまい、俺は渋々名刺を渡した。

 すると、週明け早々に会社に押しかけて来た。

 食事に行こうだのお礼のプレゼントは何がいいかだのとキャンキャン吠えられて、困った。

 で、さっきの台詞だ。

『仕事の場では口説けないので、今日はお引き取りください。時間を作って私から連絡させていただきますから』

 その後、音沙汰がなければわかるだろう。

 迷惑だったと。

 それが通じなかった結果が、今だ。

 俺は完璧な秘書の微笑みを浮かべた。

「強引な女性は私の好みではないんですよ」

 只野姫はパッと手を離した。

 手で口元を押さえ、パチパチと瞬きを数回繰り返す。

 たったそれだけで、瞳に涙が浮かぶ。

 女の演技はそれなりに見慣れているが、涙を流す速度は断トツトップだ。感心すらしてしまう。

「ごめんなさい! 理人さんに会いたいばっかりに、私ったらはしたない真似を……」

「いえ、私こそすみません。最近は疲れが溜まってしまって――」

「――私! 男性のお疲れをほぐすの、得意なんですの」

 目を伏せたように見せて、足の付け根をガン見される。

 ほぐされて再起不能になってはたまらない。

「そうですか。淑女の鏡ですね。ですが、今日は体調も優れませんので、ひとりでゆっくりと眠ろうと思います」

「そうね。私がそばにいては、それだけで眠れませんものね」

 まるで『私といたら興奮しちゃって眠れないでしょ』とでも言いたげだ。

 考えたら、本当に悪寒がした。

 心なしか、吐き気もする。

「ご理解くださりありがとうございます。では、お気をつけてお帰りください」

 紳士的ではないと承知の上で、俺は彼女を見送りもせずにエレベーターに飛び乗った。

 扉の向こうで、只野姫が投げキッスをしている。

 アレが当たったら魂を抜かれる気がする。

 俺は上昇する鉄の箱の中で、引っ越しを決めた。
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