偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
「泣いている赤ん坊の口を塞ぐような人が、偉そうに父親を名乗らないで!」
……は?
彼女の言葉で想像したのは、登が泣いている力登の口を手で塞ぐ様。
「大袈裟に考え過ぎだと言っただろう!」
登は如月さんの肩を掴む。
二人の背格好は大差ないが、やはり男の力。
如月さんが顔を歪めた。
「あれは、あんまりぎゃんぎゃん泣くから静かにさせようと――」
「――やめろ!」
背後から登の手首を掴むと、彼女から引きはがす。
そして、登と如月さんの間に身体を挟んだ。
「何すんだ!」
「女性に掴みかかるのは見過ごせません」
痴話げんかなら、余計なことは言えない。
そう思って、あくまでも冷静に、言った。
だが、その必要はないとすぐにわかる。
「部外者が口を挟むな! 夫婦の問題だ!」
「元! 夫婦でしょ。私が何をしようとあなたには関係ないわ!」
「子供がいる以上、関係ないわけ――」
「――大声を出すな」
俺は登に詰め寄り、冷静に言った。
いつも以上に声のトーンは低く、もしかしたら威圧的に思われたかもしれないが、それでも冷静に。
「いきなり押しかけてきて玄関先で喚く。これは元夫だろうと許されることではない。通報されたくなければ、帰れ。それから、力登のことで話がある時は、事前に用件と訪問日時をメールしろ。彼女が応じるかはわからないが」
「な……んでお前にそんなこと――」
「――察しろよ」
ゴクリと登が喉を鳴らした。
その時、ポーンとエレベーターの電子音が聞こえた。
登の背後を見る。
エレベーターの扉が開き、箱の中に只野姫を見て、尾骶骨付近から頭のてっぺん目がけてゾクゾクゾクッと痺れがせり上がってきた。
セックスの時の快感に似ているようで、興奮じゃなく縮み上がらせるような感覚。
只野姫はじっと俺を見たまま、右手でボタンを押している。
だが、扉は閉まらない。
腕は小刻みに揺れていて、〈開〉ボタンを連打しているのだとわかった。
「理人さん」
如月さんが俺の腕に触れる。
「買い物はいいわ。行かないで」
如月さんも只野姫を見つけたらしい。
俺は如月さんの肩を抱いた。
細い身体に少しだけ力が入り、けれどすぐに彼女の方から身体を預けた。
「戻ろう。青のりがなくてもお好み焼きは食べられるしな」
ドアを開け、部屋に戻る。
閉まるドアの隙間から窺うと、目を丸くして、鼻の穴を膨らませた只野姫の顔が閉まるエレベーターの扉越しに見えた。
直接触れなくても再起不能にされそうだ……。
登が何か言っているようだったが、只野姫の呪いのような視線に意識が集中し、聞こえないままドアを閉めた。
鍵をかけ、俺と如月さんは揃って肩から力を抜く。
彼女の肩を抱いたままだと気づいて、パッと離した。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
彼女が深々と頭を下げる。
俺は、せっかくの休日の悪夢にため息をついた。
「如月さん。俺と契約を交わしませんか」
「え?」
「俺は只野姫、あなたは元夫に悩んでいる。ここは――」
「――わかりました」
さすが、デキる女は十を言わずとも理解が早い。
そして、即断するほど困っているのだろう。
「只野さんと元夫が完全に諦めるまで、私たちの関係を偽装するんですね」
「ええ」
「力登を、守っていただけますか」
「はい」
そうだ。
只野姫に力登を見られている。
逆恨みの対象が力登になっては、まずい。
「守ります。只野姫からもあなたの元夫からも」
「よろしくお願いします」
こうして、俺は大嫌いな年上で賢く子持ちの女と、偽装契約を結ぶことになった。