偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
「はい。言われたこともあるし、言っているのを聞いたこともあります。案外、女性同士の方が辛辣だったりしますよ」
想像しなくても納得できる。
「力登が熱を出して休むと電話した時、すみませんと言うのが嫌だったんです。子供が悪いことをしたみたいで。そういう意味じゃないってわかっていても、嫌だったんです。それなら、私が熱を出したことにした方がよほどいい。どんな嫌味を言われても、辛くない。そんな……くだらない意地です」
「そうですか……」
「はい」
考えたこともなかった。
子供が熱を出したと保育園から電話が来て早退する時、母親が同僚に申し訳ないと頭を下げ、中途半端な仕事を預けてまた頭を下げ、明日休むようなら早めに連絡するからと言ってまた頭を下げる。
個人的な事情で迷惑をかけてしまうことへの謝罪なのだが、確かに『うちの子供が熱を出してすみません』と言っていると言われたら、そんな気もする。
力登はまだ幼くてわからないだろうが、あと一、二年もしたら、自分が熱を出したせいで母親が職場に謝っているのを聞いたら、自分のせいだと思うかもしれない。
熱が出たおかげで母親と一緒にいられると喜ぶかもしれないが、そうじゃないかもしれない。
「ですから、今後も職場には秘密にしていただけませんか。今日、こうして室長に知れてしまったのは不可抗力でしたが、同じマンションに住んでいると知って、顔を合わせないように注意はしていたんです」
俺も、そうだ。
まさか、彼女もそうだったとは。
「うぅ~」
身体に似合わない野太い声が聞こえ、俺と彼女はソファで身じろぐ力登に目を向けた。
「家族構成を職場に周知しなければならないという決まりはありません」
一般的に、初出勤の自己紹介で本人の口から伝えられるものだ、というだけで、絶対にそうしなければならないわけじゃない。
ただ、言わないよりも言っておいた方がよい、と判断してそうするだけ。
「業務に支障がなければ、私からは何も言うことはありません」
如月さんが息子から俺の横顔に視線を移したのがわかった。
「ありがとうございます」
「あくまでも、業務に支障がなければ、です」
「はい」
「まぁま!」
力登が四つん這いからお座りする。
お尻が随分重そうだ。
「そういえば、力登くんはいくつですか?」
「二歳です」
ならば、まだおむつをしているのだろう。
「しっちょー」
瞳を爛々と輝かせる力登は、ずりずりと後ろ向きにソファを下りた。
とてとてと駆けてくる。
二歳の頃の弟を思い出した。
俺が学校から帰ると、怜人が嬉しそうに玄関に飛び出してきた。
リビングのドアが開いていないと大泣きし、早くから開けておくと階段を上がろうとしたり、玄関の段差を踏み外したりするから、登校前に母親に帰宅時間を細かく聞かれた。
友達と寄り道したり、放課後活動があることを忘れていたりすると、よく母親が「怜ちゃんが泣いて泣いて大変だったわぁ」なんて言った。
俺は膝を折り、力登に手を伸ばした。
だが、俺の手が彼をすくい上げる前に、母親が抱き上げた。
「まずはおむつ!」
「やぁぁぁ!」
「おむつを替えたら、一緒にお好み焼き食べよう」
「おっけぇ!」
アンモニア臭をプンプンさせて、力登が笑った。