偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
言ってからハッとした。
職場で、感情的になるなど許されない。
なのに、俺が発した声、言葉は、責任者として部下に注意するためのものじゃない。
俺は眼鏡のブリッジを上げ、小さく息を吐いた。
「退職前に懲戒解雇になりたくなければ、それ以上は言わないことです」
「……っ!」
ガタンッと勢いよく立ち上がった鹿子木は、机の上の封筒を手で払い落とし、さらに床に落ちた封筒を踏みつけながらドアの前まで行くと、振り返ってキッと俺を睨んだ。
「体調が悪いので早退します!」
「随分顔色が悪いですね。退職前の有給休暇にはまだ五日早いですが、特別休暇を許可します。ゆっくり静養なさってください」
「〜〜〜っ!」
鹿子木の怒りや悔しさがない交ぜになった表情が、只野姫と重なった。
彼女が俺に惚れなくて良かった。
只野姫のような女が職場の中にも外にもいるだなんて、地獄だ。
鹿子木が叩き壊すのではと思うほどの力でドアを閉めて出て行った。ビル中に響いたのではないだろうか。
「申し訳ございません」
又市さんが深々と頭を下げた。
「あなたが謝ることではありません」
「彼女を教育したのは私ですから」
又市さんが結婚し、社長秘書を俺に引き継いでから常務に就くまで、の専任外の秘書教育を任せていた。
苦労していたが、根気強く最低限のマナーと業務を教え込んでくれた。
「何年も前のことです。又市さんの教えを糧に成長できなかったのは彼女の問題です。それに、諦めていたのは私も同じですから」
「……そうですね」
これまでにも、秘書という仕事をはき違えて辞めていった人はいた。
華やかそうに見えるが、ハイスペックな重役に見初められてシンデレラストーリーだななんて、小説や漫画の中だけだ。
現実は、気難しい重役の世話係で、パーティーへの同伴というよりも監視。
孫がいる年齢でも若い女に手を出そうとするろくでなしなのに、なぜか仕事はデキるなんて男もいる。
いた。
俺は、そんな男の元で働いていた。
覚えてないんだろうな……。
もう、十年近く前のことだ。
「では、常務室に参ります。十分後に社長室に伺いますので」
「お願いします」
俺は又市さんが出て行ってから、如月さんの机を見た。
『電話がきた途端に体調が悪いとか言い出すなんて』と鹿子木は言っていた。
託児所からの電話とか?
『ああいう堅そうな人ほど、わっかい男にハマったり』
確かに若いな、二歳児は。
力登に何かあったのだろうか。
熱が出た。嘔吐した。怪我をした。
気になった。
と同時に、如月さんの言葉も思い出す。
『借りを作るようで嫌なんです』
今、彼女に電話をして様子を聞いたら、彼女はまた怒るのだろうか。
怒るだろう。
なぜなら、秘書室の他の誰かが早退したと報告を受けても、俺は電話をしない。
わかってはいる。
わかってはいるが……。
気になるのは、力登だ。
如月さん本人じゃない。
断じて、違う――!
無意識にギリッと噛んだ奥歯が痛い。
俺は奥歯を舌でさすり、社長室へと急いだ。
その夜、あまり食べないゼリーやプリンが俺の冷蔵庫に並んだ。スポーツドリンクや果物の缶詰なんかも。
意味はない。
ただ、買っただけ。
そのうち食べる。
今夜は思いのほか帰りが遅くなってしまったし、やめておこう。
だが、そのうち食べる。
決して、他の誰かのために買ったわけじゃない。
俺は、隅に追いやられたビールの缶を取り出し、冷蔵庫を閉めた。