偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
室長がはぁ、とため息をつく。
だって……と心の中で呟いた。
眼鏡越しに見える彼の目はちっとも笑っていなくて、むしろ冷ややかで。
同じように、首筋に触れる彼の手も冷たくて。
なのに、すごく優しく感じた。
「しっちょー、ママは?」
室長は力登を抱き上げた。
「お腹空いたって」
「ママ、ちゅるちゅーたべる?」
「ちゅるちゅー?」
「うどんのことです。さっき、食べたから」
「ああ」
納得すると、室長はふっと笑った。力登に。
「ママのご飯を作りにいくか」
「えっ!? あ、大丈夫です。寝てれば治ると――」
「――力登にもそう言うか?」
「……」
わかっている。
ただ寝ているだけで熱が下がるなんて、思っていない。
だけど……。
「しっちょー、あぽーすき?」
「あぽー? りんごか?」
「ん!」
「すごいな。もう英語が喋れるのか」
「しゅごーしょ!」
「すごい、すごい」
二人が部屋を出て、ドアが閉まる。
さっきまでの騒々しさが嘘のように、静か。
会話になってた……。
力登はよく喋りたがるのに、焦るせいか正確な発音ができない。
それだけじゃない。
二歳になりたてとはいえ、やはり言葉が遅くて健診の時に相談したことがある。
『人の真似をして覚えますからね。パパママ、おじいちゃんおばあちゃんがたくさん話し相手になってあげたら、自然に覚えますよ』
泣きそうになった。
力登にはママしかいない。
おじいちゃんおばあちゃんとは、テレビ電話で顔を見るだけ。
できるだけ時間をかけてお喋りをしようと思うけれど、日々の忙しさでつい力登の言いたいことを察して、先回りしてしまう。
力登との時間をもっと持ちたくて、パート勤務にしているのに、増えた家時間を、それまで疎かになっていた家事に費やしては意味がない。
わかっている。
わかっているのに、力登が大人しくテレビを見ていたり、ひとり遊びをしていると、つい甘えてしまう。
ダメだな、私……。
早く自立して、このマンションも出て行かなければと思うのに。
自立か……。
室長を見た時の力登の嬉しそうな表情を思い出すと、胸が痛い。
力登に我慢をさせて、室長に助けられて、なにが自立よ……。
もっとちゃんとできると思っていた。
でも、なにもできていない。
「う……」
情けない。
ちゃんとできない自分も、めそめそしてる自分も。
コンコン
ノックの音に、慌てて寝返りを打ってドアに背を向ける。
カチャと静かにドアノブが下げられ、力登の声が聞こえないところをみると室長ひとりなのだとわかった。
泣いてるなんて知られたくない。
私は声をひそめた。
でも、涙が小鼻を伝って鼻の中に侵入したから、ムズムズして仕方がない。
鼻をつまんでくしゃみを耐えていたら、身体に変な力が入る。
うまく呼吸ができなくて、苦しい。
早く出て行ってほしい、と思った時、頬にひやりとした感触があって、ハッとした。
汗で頬にはり付いた髪を指先で払ってくれているのがわかる。
なんで、こんな――。
一瞬、呼吸を忘れ、次の瞬間には我慢しきれなくて盛大なくしゃみが出た。
「へっくしゅ!」
関節が痛い。
そのくらい、遠慮なしのくしゃみ。
「へっぶ!」