偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
「力登!」

 ドアの隙間に見えたのは、たった一つの宝物。

「ママ!」

 駆け出し、手を伸ばすと、息子が腕の中に降りてきた。

「ママ、げんき――?」

「――どこに行ってたの?!」

 力登をきつく抱きしめ、しゃがみ込む。

 胸の中に閉じ込めるように、ぎゅっと力を入れると、苦しかったのか力登が身じろいだ。

「マ~マ~」

「どうしたんだ。大丈夫か?」

 頭上からの声に顔を上げると、室長が私たちを覗き込んでいた。

 さっきまでのスーツ姿じゃない、Tシャツにジーンズ、髪も下ろした姿で。

「どこにっ、行って――っ」

 涙で喉が詰まってうまく言葉が出ない。

「俺の部屋でシャワーを浴びて――」

「――っなんで、勝手に!」

 私の声に、室長が眉をひそめる。

 きっと、悪意なんてない。

 わかっているのに、止められない。

「どれだけっ、心配を――」

「――落ち着け。力登、おむつを持っておいで」

「う~~~」

「如月さん。力登はおむつを穿いてないんだ。持って行くのを忘れて」

「……」

 力登のお尻を触ってみると、確かに紙おむつのわさわさした感触がない。

「如月さん、まずは力登におむつを穿かせた方がいい。病み上がりに何度もシャワーを浴びさせるとぶり返すかもしれない」

 室長の大きな手が、そっと私の背中をさする。

「大丈夫だから」

 何が大丈夫なのだろう。

 室長《この人》は私が何を不安に思っているかなんて知らないのに。

 気休めでしかない、さほど意味もない言葉。

 なのに、なぜか、私は息子を抱く手を緩めた。

 力登が腕の中から飛び出していく。

 代わりに、私が室長の腕の中に閉じ込められた。

 ボディーソープの香りがする。

 そういえば、力登からも同じ香りがした。

 私が使っているものとは違う香り。

 横向きに抱きしめられて、彼の鼓動が鼓膜に響く。

 ドッドッドッと速いテンポで力強い。

「おむつを取り替えようとしたら、勢いよく発射されて」

 耳元で、低い声でゆっくりと囁かれ、少しだけぼうっと聞き惚れて、けれどすぐに言葉の意味を理解した。

「……え?」

「洗面所に干してあった力登の服だけ持って、俺の部屋でシャワーを浴びてきた」

「……っ! すみません! 力登が――」

「――いや。眠っているからと声をかけずに行った俺が悪い。起きた時に子供がいなければ心配するのは当たり前だ」

 せっかく着替えてきたというのに、室長のシャツに私の涙でシミができる。

 離れようと身を捩ってみたが、さっきの力登同様、敵わなかった。

 そっと指で髪を梳かれ、ドキッとするより安心した自分に驚く。

「登さんに……連れて行かれたのかと思って……」

「それは、冷静じゃいられないよな」

「ごめんなさい」

「謝る必要はない」

「室長は、会社に戻ったのかと……」

「さすがに、小さな子供を置いていなくなったりはしない」

「ですよ……ね」

 髪に触れている手で頭を撫でられ、気持ち良さに目を閉じる。

 こんな風に優しく触れられたのは久しぶりで、気が緩む。
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