偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
俺は重役フロアの案内を終えると、パソコンのセッティングのためにシステム部セキュリティ課の栗山欣吾を呼び出し、後を任せた。
本来は課長である彼がするほどのことではないが、大学時代からの友人でもあるし、皇丞とは俺より付き合いが長いから、奴が連れてきた秘書に興味もあるだろう。
本人は無造作ヘアと言ってきかないが、どう見ても適当に乾かした結果のようなボサボサ頭に、顔半分が隠れる黒縁眼鏡で現れた欣吾に、如月さんを紹介し、用件を告げる。
去り際に「そんなナリしてると、また梓ちゃんに小言言われるぞ」と言うと、欣吾はふふんと得意気に笑った。
「梓ちゃんから声をかけてくれるなんて、嬉しいね」
皇丞が聞いたら、また不機嫌になりそうだなと思った。
秘書室に戻るなり、お嬢様秘書が詰め寄ってきた。
「室長。専務がお連れになった方はどなたですか?」
鼻を衝く甘い匂いに、思わず仰け反る。彼女は、何度言ってもきつい香水をやめない。
以前、副社長秘書代理として配置したことがあったのだが、一日半で俺が呼び出された。
渋いお茶には我慢できても、室内、社内に充満する香水の匂いに吐き気がするのは、仕事に支障をきたしてしまう。
俺は副社長に頭を下げ、自ら代理としてそばについた。
あれから、彼女を秘書室から出していない。
お見合いをしたとか話していたから、寿退社もすぐだろうと報告を心待ちにしている。
「鹿子木さん。後ほど紹介しますから――」
「――専務秘書にはっ、ぜひ私をとお願いしておりましたのに!」
だから?
胸の内では舌打ちしても、表情に出さない。
「あなたには縁談も多いでしょう? 専務秘書であることが枷となって良縁を逃してしまうようなことがあってはいけませんから」
腰掛らしくいつでも辞められるようにしてやってるんだから、気づけよ。
「いいえっ! 私、専務のお役に立てるのでしたら、一生を捧げる覚悟がございます!」
いや、秘書から愛人、愛人から後妻のポストを狙ってんの、見え見えなんだけど。
俺はちょっと特殊だが、それでも、秘書は役員の家族とも関りが多い。
自宅への送迎、出張への同行などがある以上、家族と不仲では仕事がしにくいのだ。
それはもちろん、役員側もそうだ。
どうしたって家族と秘書の板挟みになってしまう。
自他社問わず、役員と秘書の男女関係、そうでなくても役員家族が秘書との関係を疑う、社内で噂になる、等のトラブルは多い。
まぁこれは異性に限ったことではない。
夫の秘書を必要以上に気に入ってしまう妻もいるし、年齢的なもので言えば娘が父親の秘書を好きになるパターンもある。
とにかく、役員と秘書の組み合わせは、そう簡単にはマッチングしない。
だからこそ、秘書室長の俺はいつも、秘書の配置に頭が痛い。
ま、いくらアプローチしても、皇丞は堕ちないが。
とはいえ、梓ちゃんに嫌われる可能性は排除しておきたい。
梓ちゃんの機嫌を損ねるということは、延いては、社長夫妻の機嫌をも損ねるということだ。
「鹿子木さん。専務の秘書となって婚期を逃されるのは、専務もお父さまも望まれませんよ。あ、いや、専務のそばにいれば結婚したくなるかもしれませんね。専務の愛妻っぷりは、それはもう人目も憚らず、見せつけられるとこちらが恥ずかしくなるほどです。なにせ、専務が奥様を泣かせるようなことがあれば、トーウンコーポレーションの後継者候補の立場も、所有する株やマンションなどの全財産も放棄すると婚前契約したほどですから」
「は……?」
お嬢様の眉間に皺が寄る。
「それほど、奥様を愛してらっしゃるんですよ。女性としては羨ましいでしょう? あなたもそばにいたらきっと――」
「――婚前契約とか……」
唇をひん曲げて、彼女が呟いた。
「はい?」
「いえ」と、瞬時にいつもの『お嬢様』の表情で微笑む。
「確かに羨ましい限りですわ。私も、お見合い相手に婚前契約書を交わしていただけるよう、お願いしてみます」
いや、そういう意味じゃ……。
……まぁ、いいか。
俺は彼女の香りが移ってしまう前に、その場を離れた。