偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
「力登、行こう」
「おう!」
「楽しかった?」
「おう!」
「そっか……」
寂しそうな声と、靴音がゆっくりと遠ざかる。
「ママ」
「ん?」
「ぱぱってなに?」
「――っ!」
見ていない。
聞こえもしない。
だが、りとが息を呑んだのがわかった。
自動ドアが開き、閉まる。
柱の陰から様子を窺うと、二人の後ろ姿が見えた。
エレベーターに乗り込み、二人が振り返るタイミングで、身を隠す。
これじゃ、いつかの只野姫じゃねーか!
俺は、何をしているのか。
はぁ、とため息をつく。
もう、酒を買いに行く気分ではない。
雨も降ってきた。
つい数時間前まではりとを抱いて満たされていたのに、こうして柱に隠れて雨空を見ていると、空虚だ。
なに、やってんだ……。
もう一度ため息をつき、握り締めたままのスマホをポケットに入れようとして、ふと思った。
そして、電話をかける。
『もしもし?』
俺から電話をすることなんてないからか、声の主は少し訝しんでいる風だ。
「頼みがあるんだけど」
『はぁ? 久しぶりに電話してきて、いきなりね』
「大したことじゃない」
『なによ』
「予約を取ってもらいたい」
『……彼女?』
「いや、まだ」
まだ!?
自分の言葉に驚くも、既に訂正できるわけもなく。
『理人が? 女堕とす為に、私に頼み事!? 台風くるんじゃない!?』
バカにしたハイテンションの声に、ムッとする。
すでに雨が降っていることは言ってやるものか。
「頼まれる気、あるのか」
『頼む立場のくせに、偉そうね。いいわよ? あんたに貸しとか、使い道多そうだし』
「俺に借りがあるのはそっちだろう」
『予約、欲しいんじゃないの』
くそっ――!
頼みたくて頼んでいるわけじゃない。
だが、他にアテがないのだから仕方がない。
「頼む」
『コースは?』
「フルコースで」
『了解! 時間がハッキリしたら連絡するわ』
「ああ」
スマホをポケットに入れてマンションに戻ろうとした時、ザーッと雨音が激しくなった。
地面に跳ねた雨粒が、足元に飛んでくる。
マジで、台風じゃないだろうな。
自分らしくないことはわかっている。
台風に竜巻がセットになるほど、俺らしくない。
だが、不思議と悪い気はしない。
あれほど女に執着がなかった皇丞が、梓ちゃんにだけ見せた執着を鼻で笑った俺を笑い飛ばしたい。
いや、どうせ皇丞と欣吾に笑われるからいいか。
ただ、俺と皇丞で決定的に違うことがある。
俺とりとに未来はない――。
俺は家庭を持つタイプではないし、りとが俺と寝たのも後腐れがないからだろう。
遊び、とは違う。
異性のぬくもりが欲しい時は、誰にでもあるはずだ。
だが、誰でもいいわけじゃない。
少なくとも、りとはそうだろう。
そう自惚れられるくらいには彼女を知っていると思う。
そして、誰でもいいわけではない相手に俺を選んでもらえるほどには、好意的だと思う。
そう、思いたい……。
やはり、俺らしくない。
女を信じるなんて、ない――。
俺は部屋に戻り、冷蔵庫にあった最後のビールを飲み干した。
ピロンッとスマホがメッセージの受信を知らせる。
〈安産のお守りくらいならいいよね?〉
社長からだ。
すぐに、受信。
今度は、おしゃぶりをした猫が大きな瞳をうるうるさせているスタンプ。
社長がスタンプを探して買ったのか!?
俺は、スタンプで返した。
眼鏡をかけたドーベルマンが、親指を立てているスタンプ。
いつだったか、酔った欣吾が俺に似ていると言って、ふざけて送り付けてきたが、初めて使った。
社長からの返信は、やはりおしゃぶりをした猫が両手を挙げて喜んでいるスタンプ。肉球がやけに大きい。
そのスタンプを見ていたら、なんだか鬱蒼とした気分が吹き飛んだ。
ま、いいか。
どうせ一時だ。
楽しめばいい。
無意識にフッと含み笑いが漏れる。
それを、誰にともなく誤魔化すように唇を噛み、胸いっぱいに酸素を取り込み、ゆっくりと吐きだした。