偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
触れたのは、吐息だけ。
なのに、りとの唇が震えた。
心なしか、瞳も潤む。
「おむっちゅー!」
現れた力登は、おむつの袋をずるずると引きずっていた。
未開封なのか、かなり重そうだ。
リビングのドアに引っかかって、一生懸命引っ張っている。
「昨日、開けたばっかりだから――」
りとが力登の元に行き、おむつの袋を息子の手からもらい受けた。
「――ママ! ユック」
「あ、うん。でも――」
困惑したりとが、俺が押し込んだメモを見る。
「――ヘアサロン、みか?」
「美華って読むんだ。知り合いから客を紹介してほしいって言われたんで、りとの名前で予約しておいた。ヘッドスパとかマッサージもあるらしい。よくわからないから、全部って言っておいた」
力登が母親を急かして、その場で飛び跳ねる。
「全部って……私はカットだけで――」
「――金と時間は気にしなくていい。行って、やってほしいことを言えばいいから」
「いいからって――」
「――ママ、ユック!」
力登がりとの服を引っ張る。
「ほら、話は帰ってからだ」
「~~~っ!」
納得できないのが表情に出ている。
だが、力登は俺と出かけることでテンションが上がり、母親に早く準備をしろとせがむし、力登の声の合間に洗濯機の回転音が聞こえるから、洗濯物を干してから出かけるとなると、時間に余裕はない。
りとは困り顔で息子を見ると、今度は唇をひん曲げて俺を睨みつけた。
全く怖くないどころか笑いを誘うその表情は、仕事中の彼女からは到底想像できない。
笑顔が激レアだと言われている又市さんほどではないが、りとも仕事中は表情が硬く、他人を不快にしない程度の微笑みしかない。
あの秘書室内で気を許せる人間がいないのも納得だが、基本は黙々と自分の仕事をしているから、会話自体がない。
それでも、鹿子木がいなくなった今の秘書室は、以前ほど悪い雰囲気ではないはずだ。
肩に力が入り過ぎなんだよな……。
俺はりとの頭に手をのせた。
「先週、美容室に行き損ねたろ?」
りとの目が大きく開かれ、ゆっくりと俯く。
唇を噛むのが癖なのだろう。
彼女の頭を大きく撫で、それから頬を包んだ。
親指で唇を撫でると、唇が微かに開く。
キスしたいところだが、力登の視線が痛い。
「力登の前でキスされたくなかったら、さっさと準備しろ」
「~~~っ!」
りとが驚くほどの速さで俺から身体を離す。
「しっちょー! りきも頭なでなでして!」
力登がずいっと頭を突き出す。
「お? 旋毛が二つあるのか」
小さな旋毛が左右にある。
「つむ?」
俺は数秒前に彼の母親の頭を撫でた手で、力登の頭を撫でた。
細くて柔らかい髪の毛が、指の隙間をくすぐる。
「りき、いいこ?」
撫でろと言っておきながら、と笑ってしまう。
「ああ、いい子だ」
「ママも?」
「ああ、ママも」
「ママ、いいこだって!」
「いいこだから、ママがいなくても大丈夫だよな?」
「うん! ママ、ユックゥ!」
「りき……」
りとが頑固なのはわかっているが、可愛い息子にせがまれれば、断れまい。
渋々、本当に渋々力登のリュックに荷物を詰め、彼に背負わせるその表情に笑ってしまわないよう堪えるのが大変だ。
そして、彼女を急き立てるように洗濯機が任務終了のメロディーを奏でる。
「いってます!」
「いって、き、ま、す」
「いってき~ます」
また得意気に変なイントネーションで母親に別れを告げた力登は、どれだけ楽しみなのかピョンピョン飛び跳ねながら俺の後をついて来た。
背中のリュックはまん丸に膨らんで、飛び跳ねるたびに肩からずり落ちそうだ。
何が入っているのだろう。
おむつと着替えが入ったバッグは俺が預かった。
「りき、リュックに何が入ってるんだ?」
「パパンッ」
なるほど。
今日の昼ご飯はバターロールと牛乳だな。
そう思った途端、力登がエレベーターの壁に寄りかかった。
潰れた、バターロールだな。
俺は力登の頭を撫でると、バターロールを買っておいて良かったと思った。