偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~

「副社長は当時で既に五十代後半じゃなかったか?」

 コクンと頷く。

「副社長は奥様と別居中だった。その原因は私ではなかったけれど、私と愛人関係にあることを知った奥様が家を出たのだと噂されたわ」

「それを鹿子木が知った?」

 ふるふると首を振る。

「副社長には息子がいたの。当時二十八歳で、系列会社で営業課長だったんだけど、同じ会社の受付嬢に手を出して、デキ婚したの。女癖が悪いことは有名だった」

 副社長はとてもいい人だった。

 尊敬していたし、父親を知らない私にとってそんな存在とも言えた。

 穏やかに、時に厳しく、私たちは良い関係を築けていた。

 けれど、副社長にも欠点があった。

 それは、一人息子の育て方。

「副社長の息子からは……何度か会う機会があって、そのうちにあからさまに誘われるようになったわ。それを角が立たないようにと断り続けていたんだけど、副社長も息子と私が一緒になってくれたらと言うようになって、正直追い詰められていたの。そんな時に息子がデキ婚して、私はホッとした」

 私の安堵とは裏腹に、副社長は孫の誕生に喜ぶ半面、順序を守らなかったことに呆れ、私に好意があるように見えていたのに別の女性を孕ませたことに困惑していた。

「息子が結婚してしばらくした頃、息子の奥さんが会社に乗り込んできたの。妊娠していると一目でわかるほど大きくなったお腹を抱えて。呼び出された私は、奥さんに思いっきり殴られたわ」

「殴られた?」

「ええ。私は副社長ともその息子とも関係をもつ淫乱だと罵られたわ」

「なんでそんな――」

「――結婚しても息子の女癖の悪さは治らなかった。あの男は、秘書課の私の後輩と不倫関係にあったの。しかも、その後輩は奥さんの友達だった。奥さんにバレないようにと、会社の電話やメールで連絡を取り合っていたせいで、旦那の不倫に気が付いた奥さんは義父の会社に旦那の愛人がいると突き止めてしまったの。その上、それを友達に相談した。よりにもよって、私の後輩で旦那の愛人でもある友達に」

「愛人は焦っただろうな」

 私は大きく頷いた。

「乗り込んできた時の奥さんは、法的措置を取ると言っていたから、相談された時にそれを聞いていた後輩は友達が探している旦那の愛人が自分だと知れたら、仕事を失うだけでなく、親兄弟にもバラされると恐れたんでしょう。私を身代わりにしようとしたの」

「それで、息子の嫁がりとを殴りに乗り込んできた?」

 再び頷く。

「奥さんは本気で信じていたみたい。義父と夫が私に誑かされていると。その剣幕に、後輩は青ざめて震えていた。まさか、会社に乗り込んでくるとは思っていなかったみたい。それに、メールや電話の日時を調べられたら、その時秘書室にいたのが自分だけだったとすぐにバレてしまうから」

「実際にバレた?」

「……ええ」

 あの出来事は、副社長とその息子、そして奥さんのみならず、私の人生も大きく変えてしまった。

 それを思うと、喉の奥が苦くなる。

「会社から電話やメールがあったとされる時間、私は副社長と一緒にいたり、社内にいなかったりで、身の潔白が証明されたの。それから、その場に居合わせた人が証言もあった。後輩は他社の重役に色目を使っていたって。自分も誘われたことがあるって」

 あの時、私は救われた。確かに。

 そして、絆されてしまった。

「結局、後輩は懲戒処分。副社長も息子の不始末の責任を取って辞任したわ。当然、息子も退職の上に離婚したの」

 理人は表情を変えずに聞いていた。

 まるで、全て知っていたかのように。

 でも、それなら、私が不倫していなかったことも知っていたはずだ。

 ということは、やはり当時の箝口令は生きていたのだろう。
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