偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
「鹿子木さんが知った噂がその当時の、副社長との噂なのか、騒ぎについて誰かが漏らしたのかはわからない。ただ、知っている人間は限られているから、多分――」
「――後輩……か?」
肯定代わりにため息をついた。
思いがけない理人の来訪から、思いがけず苦い過去を想い出し、どっと疲れた。
「やっぱり、コーヒーかなにか飲まない? 喉が渇いたわ」
肩の力を抜き、立ち上がる。
無意識に緊張していたようで、腰や膝に鈍い痛みを感じた。
「何がいい?」
「麦茶」
「え?」
「ポットの麦茶でいい」
彼を見下ろすと、人差し指の関節を唇に当てて、何やら考えている。
単純なデマによる嫌がらせじゃなくて、思うところがあるのか。
「ん」
私はキッチンで麦茶を注ぎ、グラス二つを持って戻ってきた。
それを手渡すと、理人は「サンキュ」と言って口をつけた。
喉が渇いていたのは彼も同じだったようで、一気に飲み干している。
私は半分ほどを飲み、ふぅっとひと息ついた。
理人はソファにもたれて座り、長い足を立て、膝に肘をついて髪をかき上げた。
雑誌の表紙のようなポーズに、見惚れるのを通り越してイラっとした。
こんな時間でも隙がない。
私はヨレヨレなのに。
事実、急に身体が重く感じ、ソファの座面に突っ伏した。
「訴えるか?」
「え?」
「鹿子木と、鹿子木にデマを流した奴を特定して、名誉棄損で――」
「――大袈裟よ。僻みやっかみと同レベルでしょう」
顔を上げると、理人が私の顔の前に肘を立て、拳の上にこめかみを当てて見下ろしていた。
「そんなわけないだろう。少なくとも、社内で注目されれば精神的苦痛はある」
「でも、ほら。私は秘書室と専務室にしかいないし、そんなに気にならないわ」
肘をついていない方の手が、私の首をくすぐる毛先をすくう。
「これで終わるかね」
「どういうこと?」
「噂程度の嫌がらせで済めばいいけど、俺たちを苦しめるのが目的なら、平気な顔をしていたらエスカレートするかもしれない」
私の髪の毛先が、彼の指先にくるくると巻かれ、跳ねた毛先が顎に触れる。
くすぐったい。
「業務に支障が出るようなら放っておけないけど、そうじゃないなら――」
「――業務に支障が出てからじゃ遅いだろ」
「でも、これくらいのことで大騒ぎするのは――」
「――つーか、その乗り込んできた副社長の息子の嫁はどうしたんだ? デマに騙されて会社で騒いだんだ。それ相応の罰は受けたんだろう?」
「彼女も被害者だもの」
「甘いな」
髪を弄ぶ彼の指先が、突くように私の顎に触れ、つーっと首筋をなぞる。
くすぐったさに思わず声が漏れそうになるが、唇をしっかりと閉じて堪えた。
「副社長には恩があったの。息子のせいで傷ついたお嫁さんが自分の秘書によって更に追い詰められるなんて、副社長自身も耐えられなかったはずだわ」
「恩、ね」
彼が目を細め、不機嫌さを露わに呟いた。
そして、私の髪を指から解くと、その指で私の顎をすくった。
彼の意図がわかる。
それが少し恥ずかしい。
それ以上に恥ずかしいのは、期待して目を閉じる自分。
唇が重なる。
互いに少し冷たい唇が、触れた瞬間熱をもつ。
その熱が全身に広がり、心地良い火照りに酔っていたくなる。
「ん……」