こぼれた花びらと小さな初恋〜年上堅物騎士が運命のつがいになりました〜

最終話 初恋のライラック

 

「あ、蜂だ」

 目の前のハルジオンに蜜蜂が止まる。そしてすぐに別の花に移っていく。
 アクセルが鉛筆をすべらせる音が心地よくて、リュシーのまぶたが重くなっていく。

 二人は王都から馬に乗り、田舎町の外れにある花畑にいた。
 結婚してから一年。アクセルの休暇にはこうやって出かけることが多い。
 リュシーはあれから乗馬の練習を積み、遠乗りも出来るようになっていた。

「そろそろ昼食にするか?」

 眠そうなリュシーに気づいたアクセルが尋ねる。

「そうですね、エルザが色々用意してくれていました」

 一年たった今も二人はあの小さな家に住んでいる。とりあえずの家だったはずだが、すっかり気に入ってしまったので国から購入した。
 リュシーも家事を手伝うようになり、今となっては使用人はエルザだけで他は皆クレモン領に帰った。エルザに近くの家を用意し、通ってもらっている。


「今日は何を描いているんですか?」

 リュシーが覗き込むと、紙の中にはリュシーがいた。あれから時々アクセルはリュシーを描いてくれる。

「あ、さっきの蜂がいます」

 リュシーの髪の毛に咲いたハルジオンに蜂が止まっている。アクセルが描くリュシーはいつもいろんな花が咲いていた。リュシーには紫のライラックしか咲いたことがないが、絵の中は自由だ。アクセルが描くリュシーはいつだって瑞々しい。

「リュシーは?」

 アクセルもリュシーの手元を覗き込んだ。何代目かわからない手帳がある。
 アクセルに一枚だけ紛れ込ませてしまった失敗から、日記以外も手帳に書くことにしたのだ。

「私は先日イリスさんに紹介してもらったカップルの話を書いています」

 アクセルとリュシーの恋物語が話題になったのは最近のこと。
 二人をモデルにして、アクセルの描いた絵を表紙にした『初恋のライラック』は王都で密かな人気になっていた。
 ルイ王子と平民出身のお妃様の恋物語も女性たちの憧れになったが「侯爵令嬢と騎士」も新たな憧れになったのだとか。身分を気にしない運命の相手探しがちょっとしたブームになっている。

 リュシーには続編を希望する声が届き、花蜜病のカップルの話を新たに描くことにしたのだ。

「ご令嬢とその執事だったそうよ。元々幼い頃から想いあっていたお二人でお話を聞くだけでときめいてしまったわ」

「花蜜病とは不思議なものだな」

「それがなければ私とアクセル様も出会っていませんしね」

 アクセルが頷いて、目の前を飛ぶ蜂を見つけた。
 恋愛結婚に憧れていたリュシーにとって、花蜜病は完全に恋のキューピットであり、ライラックはリュシーを応援してくれる存在だ。
 しかしそんな風に思えるカップルばかりなのだろうか、願わくば皆が幸せで、これからもそういった幸せを文章に綴りたい。


「はい」

 アクセルをぼんやりと見ていたら、お茶を注いで差し出してくれる。

 この一年でリュシーも脱・侯爵令嬢を目指して、自分で出来ることが増やしていたがどうやらアクセルはリュシーの世話を焼くのが好きらしい。
 今日は一人でお風呂に入れたのです!と言うリュシーの髪を梳きたがるし、眠るときだってリュシーの頭を撫でてトントンと寝かしつけまでしようとする。これはさすがに子ども扱いですよとリュシーが小さく怒ると、子供だと思っているわけがないと深いキスを始めるのだから困ったものだ。

「今日はエルザと一緒に私もクッキーを焼いたのですよ」

 自慢気にリュシーが言うとアクセルは微笑んだ。
 初めて出逢った時の固い表情が今は思い出せない。相変わらず口数は少ないが、隣りにいるとリュシーの心は柔らかくなる。
 リュシーの言動すべてを優しく受け入れてくれるのがわかるからだ。

「おいしい」

 一口食べて目を細めてくれるから、リュシーの心も満たされる。

「おいで」

 アクセルが手招きするから、隣ではなくアクセルの膝の上に座った。
 大きな手がリュシーの髪の毛を撫でていく。
 治療などと言っていたが、アクセルがリュシーを膝の上に乗せて髪の毛を梳くのが好きなだけなことをリュシーはとっくに気付いている。

 家でもずっとこの調子である。
 二人が過ごしてきた静かな夜は、結婚してからも続いていて、
 アクセルは書類仕事は職場ではなく家で行って、できる限りリュシーの側にいてくれる。アクセルは仕事をして、リュシーは文章を綴って。
 コーヒーの匂いの中で、ペンが走る音以外は雨が降る音や、虫か鳴く音が聞こえるだけの静かな夜。
 同じ場所で、時間を共有する。それが幸福だった。
 今までと違うことは、仕事の合間にアクセルがリュシーにキスをしにきたり、ときにはリュシーを膝の上に乗せたまま書類を読んでいることもあった。

 案外甘えたがりなのだとリュシーは思う。
 仕事が終わればソファに座って、何かを話すでもなく、リュシーを抱きしめながら首元に顔をうずめていたり。抱きしめながら、耳を触ってみたり。隙あらばリュシーを抱きしめたがるし、どこか一部分に触れていたりする。それは恋人というより、大きな子どもや大型犬のようでもあった。

 誰とも結婚せずに独り身を貫くつもりだった男とは思えない。今までどうしていたのだろうか。
 愛してるだとか、好きだとか、そんなことはほとんど言ってはくれないのだけど。愛情は大きく重くてリュシーは不安になることなどない。


「今日はライラック生えていないでしょう?」

 本当に頭を撫でるのが好きな人だなと思いながらリュシーは尋ねた。ずっと髪の毛の中に手を差し込んでいるが、きっと生えていない。そもそも結婚式以来生えていないのだから。

「生えていないな」

 わかりきったことなのにそう言いつつも頭を撫で続けている。

「なら、撫でるのは必要ないんじゃないですか?」

 リュシーはアクセルの右手を取って笑った。

「必要ある」

 真面目な顔をしているくせに拗ねたような口調が愛しい。アクセルはリュシーに取られた手を引き抜いて、つなぎ直した。しっかり指と指を絡ませてぎゅっと繋ぐ。そしてリュシーの左手を探し出し、そちらも指を絡ませて繋いだ。

「この手はなんですか」

 リュシーがからかう口調で言うと、アクセルはキスでその口を塞いだ。

「外ですよ」

「誰もいない」

「誰か来たらどうするんですか、私のキスしてる姿他の人に見せたくないんでしょう」

「……」

 アクセルは大人しく顔を離すが、手は握りしめたまま自分の背中にまわしたからリュシーの頬が胸に押し付けられる。

「リュシー」

 アクセルは、リュシーの頭に顔を寄せた。耳元で声がするからくすぐったい。

「もう私の絵はほとんど描けた」

「そうなんですね」

「早めに帰りたいと言ったら怒るか?」

「怒らないですよ、私も今日はたくさん楽しみましたから」

 見上げようとするが、顔は見られない。密着しすぎている。触れた肌からアクセルの匂いがする。ドキドキするし落ち着く匂いだ。

 手が離されたかと思ったら、顎を優しく掴まれて上を向かされる。ほんの少し触れるだけですぐに解放され、また抱きしめられた。
 リュシーも素直に身を預けた。頬にアクセルの体温が広がると、それは胸まで伝わってアクセルへの気持ちでいっぱいになる。

 大好きが溢れて、こぼれた気持ちは涙になって、一枚花びらが舞った。
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