こぼれた花びらと小さな初恋〜年上堅物騎士が運命のつがいになりました〜
04 はじめて手をつなぐ
たくさんのレースがリュシーの前に並べられている。
結婚式のドレスをオーダーするために、たくさんの布見本やカタログを両親は置いて帰った。
「どれもリュシー様に似合うので迷いますね」
花柄のレースを取り出してリュシーの顔の近くに当てたのは、メイドのエルザだ。リュシーが十歳の頃にクレモン領にやってきてからずっとリュシーの身の回りの世話をしてくれている。
彼女は王都の学園を卒業したこともあり、このあたりの土地勘もある。これまでもこれからもリュシーが安心できる相手だ。
「本当にお似合いです」
「でも、私には魅力がないようだわ」
使用人たちが働きにやってくるのと入れ替わりでアクセルは出勤していった。
リュシーは昨夜のことを思い出すといたたまれない気持ちになる。恥ずかしいし、幻滅されていないか不安になった。
しかし顔を合わせたアクセルはいつもと変わりなく、昨日のことなんて全く気にしていないようだった。
――そうだ、彼はこの結婚に何の意味も感じていない。そう感じてリュシーは朝から暗い気持ちになっていた。
「結婚式でドレスを着たリュシー様を見たら、冷静な顔でいられなくなりますよ。とびきりかわいいものを作ってあげましょう」
「ふふ、そうね」
レースもビーズもスパンコールもすべてリュシーの大好きな物だ。可愛くてキラキラしたものを見ていたら久々に明るい気持ちになれた気がする。
・・
翌日、リュシーを訪ねて来たのは先日から担当してくれている女性だった。近くを通ったので挨拶がてら顔を見に来てくれたらしい。
応接間もないので、リビングに案内した。すぐに使用人達がお茶の準備をしてくれる。この小さな部屋に使用人が何人もいるのは全く似合わない。
「改めまして、花蜜病の担当をしているイリス・ミィシェーレです」
「先日からありがとうございます」
「こちらに引っ越しを完了されたと伺ったので。ご令嬢に用意する屋敷ではないのですが、急に手配できずごめんなさい」
彼女は初めて会った日から変わらず優しく声をかけてくれる。
「いえ……ありがとうございます」
「やはり今は不安も大きいですよね」
頷くが、正直なことを言うとリュシーからすると何が不安なのかもわからない。激流に身を任せるようにこの日まできた。
「根本的な治療を研究しているのですが、残念ながら現時点では対処策は結婚しかありません。しかし強制的な結婚に苦しむ方への対応策も考えたいと考えています」
ドキリと胸が鳴った。結婚以外の方法もあるのだろうか。
彼女には、リュシーが結婚を拒絶していたことは見抜かれていたのだろう。
「全てご期待に添えるわけではなく、法整備はスタートしたばかりです。出来ないことの方が多いかもしれません。それでも改善できるようにしていきたいと思っています」
「あ、ありがとうございます」
「今は新生活が始まったばかりですし、まだ何が不安かもわからないと思います。いつでも相談には乗りますので何かあれば窓口までお越しください」
彼女が帰ってから、リュシーは一人で考えていた。
少し気持ちは軽くなった。結婚以外の選択肢もあるのかもしれない、そう思うだけで鉛のようなつっかえが取れたような気もする
流されるままここまで来て、彼との結婚についての是非を考えたことはなかった。それしか道はないと思ったからだ。
自由恋愛に憧れていた。でも侯爵令嬢として政略結婚について考えたこともある。
リュシーの両親は政略結婚ではあるが、ずっと仲がよくお互いを愛している。始まりは強制的な物でも本当の夫婦になれるとは思う。
アクセルとは本当の夫婦になれるだろうか?
彼は結婚は義務だからと言い、リュシーとそういうことをするつもりはないとも言った。彼との結婚生活はリュシーが憧れていた恋とはほど遠い気がする。
でも、彼と結婚しない選択肢があったとて、彼にキスをしてもらわないとリュシーの命はない。いくらそれが治療行為であっても、定期的に他の男とキスをする女を喜んで妻にする男などいないだろう。どちらにせよ幸せな恋愛結婚のイメージはわかない。
ただ恋をしたかっただけなのに、幸せな結婚をしたかっただけなのに。
どうしてこんな運命に巻き込まれてしまったのか。リュシーはため息をつくのだった。
・・
「あら、エルザ財布を忘れているわ」
ほんの一分前にエルザと使用人たちは宿に帰ったばかりだ。夕食とリュシーの入浴を終えたら彼らの一日は終わりだ。
皆を見送ったあとにテーブルの上に置いてある財布に気づいたのだ。
「今ならまだ間に合うわね」
リュシーは自分の恰好を確認する。露出もない裾の長いネグリジェだ。ガウンを羽織ればワンピースとして問題ないだろう。急いで外に飛び出した。
家の通りから少し出てると城下町にたどり着いた、夕日が完全に沈んだ街はガヤガヤと盛り上がっている。
リュシーは田舎と同じ感覚で外に出てきてしまったが、雰囲気が全然違う。人とすれ違ったところで過ちに気づいた。
「か、帰ろう」
夜は一人で出歩いてはいけないと使用人に言われたことを思い出す。しまった、ここは王都だった。
すぐにUターンしようとするが、慌てていたリュシーはつまずいてしまった。
「お姉さん大丈夫?」
二つの影がリュシーを見下ろしていて、手を差し伸べている。
「ええ、大丈夫です」
リュシーは彼らに手を借りずに立ち上がった。リュシーの顔を覗き込みニヤニヤとした笑顔を向けた。
「うわめっちゃかわいいね」
「しかも、この子なんかすごいいい匂いする」
「一緒に飲みに行かない?」
こんな風に男性に話しかけられたことなど一度もない。舞踏会にいた男たちの瞳を苦手だと思ったが、それとは比べ物にならないほどの嫌悪感がこみ上げる。
「け、結構です……」
リュシーは家の方向に足を進めるが、これがまた不正解だった。人がたくさん行き交う通りから誰もいない通りに入ってしまったのだ。もちろん二人はリュシーを追ってくる。
「ねえ、遊ぼうよ」
「逃げないでさあ」
あっという間に追いつかれ、リュシーの腕は簡単に取られ引き寄せられてしまう。そして顎をグイと掴まれた。
「うわ、本当にかわいい」
アクセルとは全く違う。恐怖で震えながらも、アクセルに対して嫌悪感は全くなかったなあ、とどこか冷静に思い出しているリュシーもいた。
ああもう、このあいだからの全てが悪夢だったらいいのに。
全てが嫌になり目をぎゅっとつむると、ガッ……という音がして、リュシーの腕は解放されていた。
誰かが男の腕を掴んでいる。リュシーが振り向くとそこにはアクセルの姿があった。
今までアクセルのことを怖いなと思ったこともある。身体は大きいし表情は読み取れないから。
でもそれは全然怖くなかったのだとリュシーは知った。今目の前にいるアクセルはリュシーが見たことのない形相だった。
二人の男は騎士の制服と、アクセルの顔に動揺して言葉を失っている。
「私の妻に何か?」
怒気を含んだ低いアクセルの声に、二人は慌てて去っていった。
静かになった空間でリュシーは小さく「ごめんなさい」と呟いた。
見上げたアクセルの顔から怒りは消えていて、代わりに心配の色が浮かんでいる。
「なぜ外に」
「使用人の忘れ物を……」
「明日にしよう」
震えるリュシーの手のひらをアクセルは握って歩きだした。ゴツゴツとした手のひらがリュシーの細い手を包み込む。
前に歩く彼の表情はうまく見えない。でもリュシーの手を包む手のひらは優しかった。
歩きながらリュシーは先程の言葉を思い出していた。
「私の妻」――義務であっても、リュシーに魅力を感じていなくても。彼は妻だと思って助けて、手を引いてはくれる。今はその事実だけでよかった。