こぼれた花びらと小さな初恋〜年上堅物騎士が運命のつがいになりました〜
08 はじめての日記
いつもと同じ静かな夜が訪れた。
今日のことを思い出しながら、リュシーは新しいベージに文字をつづり始めた。
あの後――
食事を終えた二人はまた絵を描く作業に戻った。アクセルは先程の絵に色鉛筆で色を塗り時々それを筆で濡らした。色がぼやけて合わさって幻想的に見える。
リュシーも色の使い方を教えてもらいながら塗ってみた。鉛筆で描くよりも楽しい作業でこれもまた時間はすぐに過ぎた。
帰り道の城下町の雑貨店で、美しい表紙の手帳とペンを買ってもらった。文章を書いてみようかしら、と言ったリュシーにアクセルが贈ってくれたのだ。
そして夜、リュシーは早速手帳を開いた。この手帳には日記をつけようと思ったのだ。最初からお話を書くのはハードルが高い、日常を残すことから始めてみることにした。
今日の出来事と気持ちを素直に書いてみる。飾り気もないシンプルな文章だったが、これが形にするということか、とリュシーは感動した。
起きた出来事とその時の気持ちを、可視化してみると自分だけの宝物ができたみたいだ。目に見えなかった想いがはっきりとしてくるし、これから何度もこの日の感情を取り出すことが出来る。
今日はすごく楽しかった、それを文字という形にして「楽しかった」と目から身体の中に入れてみると、胸に小さな幸福が広がった。
夜に向かい合って過ごすのは初めてだ。ダイニングテーブルにリュシーは座り、その向かいでアクセルは仕事をしている。
いつものように仕事があるとアクセルは謝罪したが、書類の束を見ていると一日時間を作ってくれたことの喜びのほうが勝つ。この気持ちも残しておこうとノートに感情を綴った。
ぼんやりとアクセルを見ていると、視界が霞んでくる。一日太陽を浴びて身体は疲れていたらしい。気づくとリュシーはうとうと眠ってしまっていた。
・・
大きな揺れを感じてリュシーが目を開けると、リュシーの身体は宙に浮いている。周りは暗く何が起きているのかわからない。
「わっ」
周りを見渡すと、すぐにアクセルの視線とぶつかった。
「悪い、起こしてしまった」
どうやらここは二階の廊下で、そしてアクセルに抱き上げられていることに気づく。――恋愛小説によくあるお姫様抱っこというやつだ。太いアクセルの腕を感じてリュシーの身体は一気に熱くなる。
「君の部屋に送ってもいいか?」
ちょうどアクセルの部屋に入ろうとしていたところだったらしい。アクセルの部屋の扉が開いている。一度もアクセルはリュシーの部屋に入ったことはない、自分の部屋にとりあえず寝かせてくれようとしたのだろう。
「は、はい」
完全にリュシーの目は醒めていたから、もう自分でも歩けるのだけど。
アクセルはそのままリュシーの部屋に進み、扉を開いて、ベッドに進んだ。そしてリュシーをベッドに優しく横たわらせる。
「おやすみ」
アクセルはそう言って出ていこうとするが、咄嗟にリュシーは腕を掴んだ。
「アクセル様、今日の治療がまだです」
まだ部屋に戻って欲しくはなかった、一日を終わらせたくない。
廊下からの光だけ差し込む暗い部屋の中でもアクセルの表情は少しだけ見える。困惑しているようだが「わかった」と頷いた。
リュシーが身体を起こすと、アクセルはベッドに浅く腰掛けた。リュシーの方に身体をひねり、顎に手を触れた。
座ったままだとキスがしやすい、背伸びをしなくてもいい。
いつもよりも距離が近い、そう思ったリュシーは手を伸ばした。右手で太いアクセルの腕を掴んで、左手はアクセルの太ももに触れた。いつもは気をつけをした状態でキスを待つしかなかった。でも今は離れるのがさみしくて、少しだけアクセルに触れたかった。
顔と顔が離れて、目と目が合う。アクセルの瞳の中にリュシーがうつっている。瞳の中のリュシーの顔は小さくてよく見えないがきっと真っ赤だろう。
「もう一回お願いします」
発した言葉は小さく濡れて震えていた。
アクセルはリュシーが掴んでいた左腕を振りほどくと、リュシーの背中に回した。そして右手は頬に触れた。大きな手のひらはリュシーの顔を包みこんでしまいそうだ。リュシーは自分の両手で大きな手を包んでみる。
「あったかい」
その言葉は最後まで言えなかった、唇で塞がれたからだ。
いつもより少し長いキスをすると、息苦しくて少し息が漏れてしまう。
もう一度目が合ったが、まだ身体と頬は包みこまれたままだ。もう少しこのままでいたいとリュシーは思ったが、リュシーが言うよりも前に「治療は終わりだ」とアクセルが言った。
アクセルは左腕をベッドにゆっくり倒した。アクセルに身体を預けていたからリュシーの身体もゆっくりとベッドに沈む。
これは押し倒されたというのかしら?リュシーはキスに備えてぎゅっと目を閉じる。
しかしいつまでたってもキスは落ちてこないどころか、リュシーの背中にあった腕はすぐに差し引かれた。
目を開けるとリュシーに布団をかけるアクセルの姿があった。彼はあやすように布団をトントンと叩き「おやすみ」と言った。
「おやすみなさい」
と言うしかないリュシーを残して、アクセルは部屋から出ていった。
「いつまでたっても子供扱いだわ」
目が合ったとき、いつも凪いでいるアクセルの瞳が熱っぽく感じたのは勘違いだったのかしら。
リュシーは眠ろうと目を閉じるが、大きな手のひらや太い腕を思い出して眠れそうになかった。