薬術の魔女の結婚事情
距離感の測り方は人それぞれとはいえ。
魔術師の男に礼儀作法について教えてもらうと、かなり姿勢が良くなった。魔術アカデミーの講師は毎日付きっ切りで何時間も付き合ってくれるわけではないので当然の話だろう。彼も毎日見てくれるわけではないが、休日はたっぷりと礼儀作法の練習に付き合ってくれた。
昼食では食事のマナーや出されるもの、動作や食器の意味を丁寧に根気強く何度も教えてくれる。なので、もうほとんど覚えてしまったように思えた。忘れてしまっても馬鹿にすることなく、修正点だけを端的に教えてくれるので面倒もない。
そして礼儀作法を学んでいくうちに、姿勢が良くなると魔力の生成や使用効率も上がるのだと薬術の魔女は知る。きっと、呼吸やエネルギー、魔力の使用効率が良くなるからだろう。
「(だから、魔術師の人たちは姿勢がいい人が多いんだ)」
そう思う。普段よりも魔力の減りが少なく、疲れもすぐに回復するのだ。姿勢の良さは見栄えのほかにも意味があった。講師に教わっただけの中途半端な状態ではできなかった良い発見ができたように思う。
自分のためにも、『普段からなるべく姿勢を良くしていこう』と薬術の魔女は誓った。
×
ある日の休日の夜。
魔術アカデミー寮の自室のベッドに薬術の魔女は横たわる。そして今日の昼間にあった出来事を思い出し、ころ、と薬術の魔女は寝返りを打った。すっかり外は暗くなり、消灯時間も近い。
昼間の事でよく思い出すのは、礼儀作法を教えてくれる時の、最近の魔術師の男の事だ。最近の休日はほとんどを礼儀作法の練習に充てているので当然の話だった。多分。
「(相性について聞いたあとからなんとなく、距離が近くなったような……)」
そんな気がするのだ。
「(……それに。なにか、試されてる)」
これは、確信している。
去年よりも、一昨年よりも、物理的な距離は近くなった。間違いなく。
だが、それ以外はほとんど変わった気がしていなかった。
「(少しくらいは近づいた……とは思いたいけど)」
横向きに寝転がったまま、小さく溜息を吐く。
魔術師の男は普段も、薬術の魔女に対して柔らかく対応をしてくれているのだが。
「……」
少し考え、仰向けになった。自室の暗い天井を少し見上げて目を閉じる。
なんとなく、今まではどこか距離を感じていた。精神的な距離、とでも言うのだろうか。特にそこが変わっていない印象を抱く。まるで深く踏み込まれることを拒絶しているようだと思っていた。
そうだったのに、今回は動作を教えてもらっている立場とはいえ、結構接触が多かったように思うのだ。
「ん……」
接触していたことを思い出し、少し、頬に熱を帯びる。湧きあがった羞恥に毛布を目元まで引き上げた。
別に、何か怪しい手つきだと言うわけではない。しかし、偶然だとしても耳元で囁くように声をかける、必要があったとはいえ後ろから手を持って教えるなど、やけに距離が近かった。そんな印象がある。
「(……でも、いやな感じはしない)」
なんとなく、背中がぞわぞわするぐらいだ。
例えば、魔術師の男が後ろから手首の辺りを優しく掴んで、動作の位置を正した時。
彼の気配と体温の熱を背中に感じてしまい、気持ちが落ち着かなくなる。
身長差があるからか彼が上体を少し曲げ、声をかけた時。
耳や首元に息が少しかかり低い声が響くそれが何やら、ぞわりとした震えを寄越す。
物理的に位置が近いからか、魔術師の男から甘く芳しい香りがした。
「……うぅ、」
更に、頬に熱を帯びる。どうしようもない羞恥に、薬術の魔女は毛布の中で体を丸める。どうして、近いだけでこんな思いをしてしまうのだろうと思った。
おまけに、恐らくだが婚約者としては別に不自然ではないはずの距離だ。
今までが遠過ぎただけなのだと、薬術の魔女は自分に言い聞かせる。
「(だって、相性を確かめた人の話はよく聞くし)」
と、少し考えて『むしろまだ遠いのかも』と思ってしまった。途端に顔へ更に熱が集まる。
「(……あれ以上は、まだ……むり)」
ただ頬に触れられただけで、あれほど恥ずかしい思いをしたわけだ。
「(恥ずかし過ぎて、死んじゃうかも)」
顔の熱を逃そうとややぬるい手を当てた。あまり、意味はなかったけれど。
「(んー、手のひらで転がされてるような気持ちになるなぁ)」
思い出せる限り、礼儀作法を教えている最中の魔術師の男は、なんだか楽しそうな様子だったのだ。
その楽しそうな様子が、獲物を甚振る猫、のような印象を持った。
「(……信頼しようと、してる?)」
変な方法だけれど、彼なりになにか距離を測ろうとしているのかもしれないと薬術の魔女は思う。
「(変な方法だけど)」
それは何度も思った。
だが、どちらかといえば魔術師の男の方が薬術の魔女に多少なりとも興味を持ち、干渉しようと考えたらしい事が嬉しかった。
「(完全に脈なし、ってわけじゃないんだもんね)」
好きの反対は無関心だ。だから、その感情がどうであれ、良いことなのだと思うようにした。