薬術の魔女の結婚事情
月見の夜
とある夜。
屋敷に入る前に、魔術師の男は自身の足元から影が伸びていることに気付く。
「……嗚呼、月ですか」
ふと顔を上げると雲一つない闇の夜空に、まるでくり抜いたかのように真ん丸な月が見えた。
「あの様に綺麗に見えるのも珍しいですね」
月見酒も良いものか、と独り言つ。
×
屋敷内の明かりをつけることなく、庭が広く見える居間まで移動し、軽くつまめるものと魔力を大量に含む酒を置いた。元々、魔術師の男は猫魈が混ぜられているため、夜目が利くのだ。
「矢張り、此の辺りが美しく見えるか」
掃き出し窓を開け、座る。
少しして、小さな足音が聞こえた。
「……珍しい時間にいらっしゃいましたね」
「うん」
奥から、薬術の魔女が姿を現した。以前と違い、新しい方の運動着を着ているようだ。
「…………斯様な遅い時間に態々、何用で御座いますか」
「あんまりにも、月が綺麗だったから」
問いかけると薬術の魔女は落ち着きなく視線を逸らし、答える。
「きみのおうちの方が、綺麗に見えそうだなって思ったんだ」
どうやら寮の自室から見上げた際にそう思い、木札を利用して魔術師の男の屋敷にまで足を運んだようだ。
「点呼も、終わったし」
「だめ、かな?」とおずおず尋ねる薬術の魔女を邪険にする訳にもいくまいと、魔術師の男は
「仕様がありません。好きなだけ居ると良いでしょう」
と迎え入れる。
「……其れに、」
魔術師の男は少し考え
「別、貴女が居る事は……厭では無いので」
そう、零した。
「そっか。ありがとう」
薬術の魔女は嬉しそうに微笑む。
「(寧ろ、共に観たかった……等と、)」
言えず、小さく溜息を吐いた。
ただ、近くに姿が見えている方が安心出来るだけだ。
「(……其の筈だ)」
横に腰かけた彼女を横目で見る。
×
「あのさ。月は妖精や天使のいる世界で、すっごくきれいな場所なんだって」
月を見上げ、薬術の魔女はぽつりと零した。
「おばあちゃんがいってた」
魔術師の男は彼女を見下ろす。月明かりに照らされ、珊瑚珠色の虹彩がキラキラと輝いているように見えた。
「……其の御方は、貴女の祖母なのですか」
なぜか、このまま放っておくとどこかへ行ってしまいそうな、そんな予感がしてしまう。彼女が『生きている人間なのだ』と言う証拠が欲しかった。
覚醒者のように魂が人間でない者、その中で特に両親のいない者は、唐突に姿を消す事があるからだ。その後に見つかる確率はかなり低い。
「祖母、なのかな? よくわかんないけど」
しかし、魔術師の男の思いも虚しく、薬術の魔女はそう首を傾げた。
「小さいときに私を拾って育ててくれたの。わたしにはお父さんとか、お母さんとか……『そういう人』ってのがいないみたいだから」
「…………然様で御座いますか」
実際、魂の形が人間でない時点で両親が居ないだろうことは、魔術師の男には予想済みだった。
「きみは、」
そう、薬術の魔女は口を開き、何かを言おうとしていたが、言葉を発さないまま閉じてしまった。恐らく、両親などの家族のことでも聞こうとしたのだろう。
「(……而、『出来損ない』を思い出したか)」
魔術師の男にとって、両親など居ても居ないようなものだ。むしろ、ずっと憎み、恨んで、呪い続けている対象だった。
「今、『幸せ』?」
目を伏せ、薬術の魔女は問いかける。それから、彼の顔を見るように視線を上げた。
「……ええ。今のところは割と……とでも、答えておきましょうか」
口元に手を遣り、魔術師の男は薄く微笑む。その様子をじっと見つめた後、
「……そろそろ、戻るね。おやすみ」
薬術の魔女は立ち上がる。
「…………えぇ。御休みなさいませ」
闇に消えるその背を見つめ、魔術師の男は返した。