薬術の魔女の結婚事情
始末
だが。
ぎり、と奥歯を噛み締めて魔術師の男は激痛を耐え忍ぶ。
倒れはしなかったものの、喉の奥から血の塊がせり上がり、溢した。
「.«αεημότρτθ» η ςασήλιθηνα ααητότυττ ιίναε」
知らない言葉が、口から吐き出される。恐らく、何かが入り込んだせいで勝手に喋れるのだろうと推測した。
周囲の者達は『まだ神が去らない』ことしか感じられていないようで、呪物性の結界を解かず様子を見ているようだ。
「(呑まれて、たまるものか……)」
ぐい、と魔術師の男は雑に口元を拭う。
まだそれは入り込む途中のようで、高温の泥が目から中心に流し込まれるような心地が体内に有った。
不快さは無く、不思議と気分の高揚を感じている。
目から澱んだ何かが入り込んでいるようだが、命に問題は無い。
《;υυίβλοαμοσ νπορχάυυ υοτ αναύμετπ υρνημούγεοοπ ίιατγ》
魔術師の男の魂に触れようとしたらしいそれの、戸惑う声が頭の中に響いた。その反応に予想通りだと、彼は口元を僅かに歪めた。
問題がないのは、既に魔術師の男自身の魂が猫魈と混ざって既に穢れているからだ。その上、呪いで歪に歪んでいるのだから、精霊に見間違えられても仕方ないだろう。
昔、穢れた魂は天国に行けないのだと言われたが、こんなところで役に立つとは、と自嘲のような笑いが漏れる。
それと、約束があったのを思い出す。
「(『香花の木』の花を……観ると、)」
少なくとも、儀式を終えて半月ぐらいは生きねばらならない。
だから。
「;ικστώοεσιτό αν ςεκτιύοψ «ςεόθ» ίπροεμ ςναέ εμ ςιετεύσιπ」
魔術師の男は予め隠し持っていた燻んだ金色の腕輪を、体内から転移魔法で取り出し自身に着ける。腕輪を所持した直感は、この瞬間のためだったと悟った。
あの覚醒者が薬術の魔女から渡された腕輪だ。
《;!οχέσμινσ αώμσ ιίναε οτ》
覚醒者はその様な使い方をしていなかったが、魔力を通しながら着けると魂の封印として魂と外界を強制的に切り離せる。
悲鳴のような音を上げ、それは一部を魔術師の男に遺したまま消え去った。
それから少しして、結界を解く鐘の音が響く。
「(『共に観る』と、約束はしましたが)」
しかし、一緒に『観る』事は難しそうだった。視界が真っ黒に塗り潰されていたからだ。恐らく『春の神』の穢れのせいだ。治るのか、治らないのかも分からない。
今は見えずとも、魔力で周囲の把握はできるので大きな問題はないだろう。
「.ςονομ ο ιιμαε」
呟き、今度こそ本当に意識を手放す。
×
再び魔術師の男が意識を取り戻すと、静かな空間に横たえられていた。背には柔らかい敷布団の感触、身体の上にはやや重い布団の感触がする。
『(……此処は)』
いやに懐かしいにおいだと思った。草と、抹香と、呪いのにおいがした。不愉快な、さざめきのような声が鳴り止まない。
「起きたか」
思いの外、近い所で兄の声が聞こえた。目を開いていないのに、意識の覚醒に気付かれたようだ。
それと同時に、推測は確信に変わる。ここは呪猫だ。そして、呪猫当主が居るのならば、居る建物は本家の屋敷、ということになる。
『……態々、此の儂の前に姿を晒すなど愚かな』
低く呟き、
『死ねい! 呪で藻掻き苦しめ!』
目を見開いて、魔術師の男は術を行使しようと身体を動かそうとする。
「体に障る。動くでないよ」
『ぐっ、』
兄の声と共に、身体が硬直した。動かせずそのまま布団に身体が落ちる。奥歯を噛み締め、声のする方を睨み付けた。
「怯えるでない。お前に危害を加えるつもりはない。少なくとも、私は」
そう、声は告げる。
『成らば、式神ではなく直接来い! 屋敷の奥依り出ぬ卑怯者がっ!』
魔術師の男は喉から唸り声を上げ、吼えた。
「……お前は、何を体に入れたのだ」
声と共に、人の手が硬直した魔術師の男の顔に触れる。
『っ!』
「此処に居るだろう、私が」
視えないのか、と呆れた兄の声に魔術師の男は口を閉ざした。触れたそれは、間違いなく本物の、兄の手だったからだ。叫んでおきながら、忙しいはずのこの男がなぜいるのだと魔術師の男は動揺した。
「……いや、言われなくとも、何を喰ったのかは判っているのだが。……偽りの物とは言え『神』の一部を喰い千切るとは」
「お前は昔から無理をする」と、兄は困ったように呟く。
「其れに、お前は面白い魔道具を持っていた様だね」
面白そうに笑うその声は、心の底からは笑って居なかった。小さな苛立ちと呆れがない交ぜになった感情が、声色から察せられる。
「『魂封じの腕輪』。……何処で手に入れた」
身を屈めたようで、低く下げた声が近付いた。その腕輪は、滅多に手に入るものではない。だから、入手先を気にしたのだろうと察する。
ふと、それを着けていた腕を動かし所在を確認すると、腕輪がなくなっていた。きっと運ばれる折に、魔術師の男自身より魔術が使える誰かに外されたのだ。
『……と或る方から預かった物です。返す予定があるので、返して頂けると嬉しいのですが』
どうにか声を出して、魔術師の男は兄に云う。きっと今所持しているだろう人物に対して。
「其れは出来ぬ話だな」
然るべき場所に持っていく、と答える。つまり魔術師の男の手元には返ってこない。どこかの魔術の研究機関に渡されるのだろう。
『私には、仕事も残っています。態々貴方の御手を煩わせてしまいましたが、帰らせていただきます』
そう返すと
「嗚呼、そうだ。お前の仕事の話だが」
兄は魔術師の男に少し残念そうに答えた。
「暇を言い渡されておるな」
『……』
「『お前の気が触れてしまった』から、治るまで預かってくれと」
口を噤む彼を労わるような、柔らかい声で告げる。
「どう言われようとも、お前は未だに家の者だ。周囲の戯言を聞くでないよ。少なくとも、私の弟である事に変わりはないだろう」
そう言うと立ち上がり
「仕事よりも、先ずは自身の事を心配しなさい」
気付いて居るか、と魔術師の男に問いかける。
「魂の姿に戻っているぞ」
その声に、はっとして魔術師の男は自身の顔に触れた。頬、鼻筋、口元、耳、そのすべてに指先を伸ばす。触れただけで分かる、尖った鼻先に尖った耳、顔に触れる湾曲した鉤爪の付いた指。肌の感触も、変わっている。
『……』
人間の形を、していなかった。
「お前を、家に戻そうと色々と手を尽くしたつもりだったが……色々と儘ならぬものだな」
兄が何かを呟いていたが、あちこちで聞こえる不快な声が煩くて仕方がない。
『(道理で、やけに不快な声と臭いがするのか)』
想定より落ち着いていた。そのことに疑問を持つが
「じきに薬が切れる。……苦しいやも知れぬが、治す薬が無い……すまないな」
との声に、鎮痛剤やら色々を打たれているらしいと気付く。
「完治は難しいだろうが手は尽くす。お前も死ぬでないよ」
そう言い、兄は部屋から去った。暇な人ではないからだ。