薬術の魔女の結婚事情
覚悟を決める。
春休みが明け新学期となったが、薬術の魔女は授業に身が入らない。なぜなら、婚約者である魔術師の男が倒れたと聞き、それが気が気でなかったのだ。
それを知らせたのは、見知らぬ宛先からの手紙だった。
×
「あ、半透明なねこちゃん」
授業が終わり、寮の自室に戻った薬術の魔女は目の前に浮遊する精霊を見るなり呟いた。
確か、魔術師の男が倒れた旨を伝える手紙を持ってきたのも、この『半透明なねこちゃん』だったはずだ。
首に太い紐と鈴を付けた精霊は、薬術の魔女に咥えていた手紙を差し出す。
「お手紙? ありがとう」
受け取り、開くと
「『急用の為取り急ぎ来られたし。全て此方で用意するので心配無用。移動魔術式の発動手段は手紙を最後まで読む事』……って、え?」
読み終わった瞬間に、手紙が勿忘草色に光った。
×
「えっ、ここどこ」
目を開き周囲を見回すと、見知らぬ場所にいた。平に平された地面を踏んでおり、黒い瓦の屋根が付いた白い壁が両脇に迫る。そして正面には、同じく黒い瓦の屋根が付いた木製の巨大な門があった。後ろを見ても、黒い瓦の屋根が付いた白い壁に挟まれた道があるだけだ。なんとなく、空気の湿度が高く重たい気がした。
「あ、半透明のねこちゃん」
どうしよう、と思い周囲を見回すと、自身の斜め前に手紙を持ってきた精霊がいる。
薬術の魔女を見た精霊は、ふわっと浮かび門の前に進み出た。少しして、ゆっくりと門が開く。すると、精霊はそれをくぐった。
そっと門の先をのぞき込むと、その先で精霊がこちらを振り返り見て止まっている。
「……『ついてきて』ってことかな?」
ちら、と薬術の魔女を振り返る精霊の後を、薬術の魔女はついて門をくぐった。他にやりようがないし、恐らく、門の先に居るだろう誰かに招かれているはずだからだ。
「わぁー……広い」
門の先には砂利の敷き詰められた庭と、広い木製と思われる建物があった。見える壁のいくつかは、門の周囲の壁と同じように白く塗られている。
足元には白い石畳が敷かれており、まっすぐに建物の出入り口らしき箇所や周囲を囲っていた。きっとこの上を歩くのだろうと思い、そのまま精霊に誘われるままに歩き出す。
「あれ、どうしたの」
建物に入る前に、精霊に止められた。不思議に思う間もなく、精霊は薬術の魔女の足元を見つめる。
「え、ここで靴脱ぐの?」
その視線に問いかけると、そうだと言わんばかりに精霊は頷いた。手紙だけを届けていたころから全く鳴き声を聞いた記憶がないので、この精霊は鳴かないのかもしれない。
靴を脱ぎ終えると、一辺に長い紐のついた四角い布が頭に降ってきた。それを薬術の魔女が手に取ると、精霊は布を顔に押し付ける。
「……で、この布を顔に着けるの?」
精霊は尾をゆるりと揺らした。恐らく肯定だ。
それを顔が隠れるよう額にかけ、頭の後ろで紐を結ぶ。
「んー……なんか色々と独特」
呟きながら屋敷に上がり、靴を脱いだ。それから先程と同じように、精霊に案内されるままに板張りの長い廊下を歩いた。
目隠しをしているが、不思議と案内の精霊の居場所と足元の様子がわかる。
「(……それに。なんか、変なのいっぱいいる)」
なんとなく走る怖気のような寒気のような気配にそっと腕を摩った。
この場所にはほとんど人の気配は無く、なぜか黒い影のようなものがたくさんいるのだ。その半分くらいが、なんとなく嫌な感じのするものだった。恐らく、目の前を浮遊している精霊の仲間なのだろう。
板張りの長い廊下は屋敷の部屋を囲うようにあった。庭と部屋を分けているような独特の構造に周囲を見回す。外は砂利が敷き詰められているが、所々に芝生があったり池や川のようなものがあったりと、人工的につくられただろう自然の不思議な風景が広がっていた。
×
ふわり、と精霊が動きを止める。
「あれ、ここで終わり?」
長く歩いてようやく立ち止まったのは、恐らく建物の中央に値する広い部屋の前だ。随分と長く歩かされた気がする。
「よく来た。急な事で済まないね」
部屋の奥から、静かで、それでいて張りのある声がした。そこで部屋の奥に誰かがいるのだと薬術の魔女は気付く。
「……だれ……ですか?」
誰かが座って待っていた。
「そう急くな。先ずは此方に来なさい。話は其れからでも遅くはないだろう」
部屋に入るよう言われ、案内の精霊は鴨居をくぐり部屋に入る。それにならい、薬術の魔女も敷居をまたいで部屋に入った。
広い部屋は板張りで、奥の方が少し高くなっている。その高くなっている箇所には木枠と布、簾で囲われた場所があった。正面の簾が半分程度上げられており、その中に一人の男性がいたのだ。
「其処に座りなさい。……椅子を置いてくれないか」
薬術の魔女に座るよう勧めた後、精霊に指示を出す。途端に、薬術の魔女の足元に程よい高さの椅子が現れた。
「礼儀作法は気にしないので、辛くない姿勢で好きに座りなさい」
言われ、これに座るのか、と確認してから薬術の魔女は椅子の上に座る。
「其の打ち覆ひ……ではなく布の面は、お前の命を守る為のものだ。不用意に外さぬ様にね」
顔を見ようと布に手をかけるとそう、止められた。
ほんの少し見えた男性は、長く癖のない霞色の髪を後ろで一つにまとめている。だが、その顔は今の薬術の魔女と同様に布で隠されていた。
「私は、此の場所……呪猫大公爵家の当主をしている者だ」
首を傾げる薬術の魔女に苦笑しながら、目の前の男性は答えた。
「呪猫……の、当主」
思わず、言葉をおうむ返しする。滅多に外に出ないと言われる呪猫の、おまけにその当主に会うとは思いもしなかった。
「然様」
男性は、驚き目を見開く薬術の魔女にゆったりと頷くと
「而。お前の婚約者の兄だ」
そう答えた。
「……おにいさん……あの人の?」
呪猫あたりの人だとは予想していたが、まさかの当主の弟だったらしい。その衝撃に薬術の魔女は眉を寄せた。本当に、とんでもない人と出会ってしまったようだ。
「そうだとも」
それを聞くと薬術の魔女はきゅっと口を結び、呪猫当主を真っ直ぐ見つめる。
「それなら、婚約者に会わせてください。そのために、わたしをここまで連れてきたんですよね?」
「ふむ……怯まないか」
面の奥で、目を細めたような気がした。
「何を見ても、後悔はしないかな」
呪猫当主は問いかける。なぜそのような事を訊くのかわからなかったが、
「『絶対にしない』……とは、言い切れない」
と、薬術の魔女は答えた。
「……ほう?」
「わたしが、何に後悔するかわからないし」
訝しげな声を上げた呪猫当主を見据えたまま、
「話せないなら、『もっとあの人とおしゃべりしてたらよかった』とか、歩けないなら『いっぱいお出かけしたかった』とか、思うかもしれないから」
続ける。
「…………そうか」
酷く、優しい声で呪猫当主は相槌を打った。
「ただ、あの人のことが『好き』だって事は後悔するつもりはない……です」
「二言は無いな?」
問いかけた呪猫当主に頷くと、
「では、付いて来なさい」
呪猫当主が立ち上がる。どうやら、当主当人に案内してもらえるようだ。
高い場所を薬術の魔女から見て左手に降り、そのまま静かに歩き出す。
「此方だ。逸れぬ様にな」
それを慌てて彼女は付いて行った。
そのまま外側へ伸びる回廊を通り、一つ部屋を曲がって更にその奥へ。
「……此処だ。此の部屋の奥に居る」
北東側の、奥まった薄暗い場所に案内された。
段々と暗く寒い方へ連れて行かれるので少し不安になっていたが、そこに婚約者がいるらしい。
出入りらしき引き戸には何やら紙の飾りの付いた紐や、紙の札が貼られていた。
戸を開け、変わり果てた姿の婚約者を目の当たりにする。