薬術の魔女の結婚事情
急に言われても困る。
戸を開けた直後、魔術師の男からするものと同様の、だが、圧倒的に濃いにおいがした。
甘く芳しい、香のような匂い。
「魔力が抑えられぬ様でね。相性が良いお前には少しきついか」
顔をしかめそうになる薬術の魔女に、呪猫当主は問う。
「……大丈夫、です」
口を結び、薬術の魔女は答える。
「(このにおい、魔力の匂いだったんだ)」
そう思いながら、薬術の魔女は部屋の中を見ようと戸に近付いた。
暗い部屋の奥からは獣のような低い唸り声と荒い呼吸が聞こえる。それが、薬術の魔女にはとても苦しそうに聞こえ、思わず唇を噛んだ。
部屋の様子を見ながら、
「……拙いな。悪化している」
薬術の魔女の横で、顎に手を充てた呪猫当主が小さく呟く。
部屋の中には一切の明かりや窓が無く、薬術の魔女達のいる場所から差し込んだ光が唯一の光源だった。
そっと、薬術の魔女は部屋の中を覗き込む。
まず目に付いたのは部屋中に広がる長い髪だ。
婚約者のものと同様の、黒紫色をしたそれは光が差し込むと蠢き、一束、のそりと薬術の魔女達の方へ伸びた。
「わっ!?」
しかし、それは部屋の外には出られないらしく、薬術の魔女の目の前で何かに弾かれる。
すると、部屋の中央にいるそれが低い唸り声を上げ、こちらを睨み上げた。
「……っ!」
薬術の魔女は息を呑む。
戸の奥にいるのは婚約者のはずだが、その髪の隙間から覗いた虹彩の色が、全く別の色だったからだ。
常盤色の筈のそれが赤黒く濁っており、止め処なく黒い涙を流している。
赤黒く染まった目はまるで、魔獣のようだった。
そして、薬術の魔女はゆっくりとその視線を彼の身体の方へ向ける。
暗くて良くは見えないが、髪の隙間から彼の身体の端々が見えた。骨格は人のものに近いが、人とは別の形状をしている。まるで人と獣を無理矢理に混ぜたかのような、獣を人間の形に歪めたかのような、そんな厭な形状だった。見ているだけで強制的に嫌悪の感情を抱くような、悍ましい姿。
暗くてよく見えないが顔も人間ではなくなっており、人間になり損ねた獣、のような印象を抱くだろう。
衣類は纏っているようだが、顔や身体、衣類のほとんどが目から溢れているものと同じ黒い液体で汚れている。
薬術の魔女はもう一度、彼の顔を見た。そして、横に立つ呪猫当主を見上げる。
「…………ねこちゃんになる魔法にかかったの?」
唸る声や、髪から覗く尖った耳が、猫のようだと思ったからだ。普通の人間ならば嫌悪を抱くその姿を、薬術の魔女はいとも容易く直視する。それはきっと、彼女の魂が妖精のものであり人間でないからできたことだ。
「……ふ、」
呟いた声に、当主が吹き出した。
「……そうか。お前はそう言うのか」
柔らかい声色で呪猫当主は零す。兄である自分ですらまともに見られないその姿を直視し、かつ嫌悪を抱かないなど何とも羨ましいことか。魂が人間である限り、それは適わない節理である。
「あれは魔術や魔法ではなく、何方かと言えば『呪い』だ」
彼を、精霊憑きにしてしまったゆえの弊害。
「『呪い』?」
「他所から取り入れた『穢れ』に依る魂或いは魔力の暴走、とも言えるのだが……兎に角、今は彼奴に私達の声は聞こえていない」
首を傾げる薬術の魔女に、呪猫当主は云った。
「少しすれば鎮静剤が投与される。其の時に、彼奴と話せるだろうよ」
そして、部屋の戸を閉める。
×
「……あれを、大事にしてやってくれないかな」
奥の部屋から少し離れ、呪猫当主は薬術の魔女を見る。
「私は昔、両親に本家に売られた。だから、両親の事はまあどうでも良いとは思っているのだが」
溜息を吐き、続けた。
「……私にとって、彼奴はたった一人の肉親だ。屹度、私の事を恨んで、呪っているだろうけれど」
「だが、仕方なかった」と、零す。
「あれが私の弟として生まれてしまったのが運の尽きだ。弟が生まれた時に、私はその運命を視た」
そう言うと、少し声を落とした。
「……ずっと私と比べ続けられた末に、自身を呪い、私を呪い、呪猫を呪って滅ぼすのだと」
だから細工をしたのだと、告げる。
「呪猫の家は、4つになると使役の為に精霊と契約を交わす。契約を交わした精霊は自身の持ち歩く道具に精霊を宿すのだが」
薬術の魔女から、呪猫当主は視線を外した。
「彼奴は、自身の身体に精霊を宿している」
「……身体?」
首を傾げる薬術の魔女に構わず、続ける。
「宿しているのは私が家の者に捕獲させ育て殺した、飛び切りに呪力の強い猫魈だ」
開祖の血に混ざるものと同じものだと、呪猫当主は云う。
「あれに猫魈……要は開祖の血と同じものを混ぜたのは、才能が有ったからだ」
『才能』の言葉に、薬術の魔女は薬猿での当主候補の男との会話を思い出した。
「呪いの才能と使役の獣を育てる才能が、有った。屹度、あの儘成らば本当に家を潰せるほどの怨霊を作り上げられただろうね」
と、小さく笑う。
「……それは、あなたがあの人のことを『脅威』だと思ったってことですか」
顔をしかめ、薬術の魔女が問いかけると、
「『恐れた』? はは、勿論だ。彼奴は私には届かぬが相当な力を持つ男だからね」
呪猫当主は頷いた。
「私とて、呪猫の当主だ。弟が生まれた時点で既に実権は握っていたし、折角の権力を手放すのは惜しかった」
乾いた笑いを交えながら、呪猫当主は続ける。
「而、此の家を潰すと、軈て国が滅ぶ」
笑いを止め、呪猫当主は薬術の魔女に言葉をかけた。
「ここの役割は知っているだろう。『国の守護』だ。……何も知らぬ者は『呪いだの言う出鱈目を使う星見台』としか思っていない様だが」
薬術の魔女は頷く。貴族や歴史について学ぶ時に、『古き貴族』の役割について学習した記憶があった。
「占術で未来を測り、起こり得る災害を回避させてきたのが呪猫だ。其れが無ければ、国軍でも災害全てを防ぎ切れるものか」
低く呟き、呪猫当主は溜息を吐く。
「……だが、先に彼奴を潰しておけば……彼奴が呪うのは私と私達の生まれた家だけになる」
その言葉に、ほとんど感情を感じられなかった。
「だから、彼奴は国の為に私の都合によって潰された」
だが薬術の魔女には、後悔をしているように、懺悔しているように聞こえた。
「私は彼奴に赦されない事をしたのだ。だから、私がしてやれない分まで大事にして欲しい」
×
「……薬の投与が終わった様だ」
少しして、呪猫当主は薬術の魔女に告げる。
「今成らば、彼奴と会話が出来るだろう。何か、会話でも為ると良い」
暫く人払いをしておく、と呪猫当主は部屋の扉を開け
「唯の勘だが、お前成らば彼奴の事を如何にか出来るだろう。其れも含めて宜しく頼む」
「うわっ?!」
薬術の魔女を部屋に押し込んだ。
振り返るも、戸は閉じられてしまった。