薬術の魔女の結婚事情
きみが嫌っていても。
光源のない暗い部屋のはずなのに、なぜか彼の様子が手に取るように理解できた。
先程までの荒い息や獣の唸るような音は時折聞こえるが、床に這いつくばっていた彼はちゃんと人間らしく座っている。
『…………』
彼は一瞬、誰が入って来たのかと小さく身動ぎしたのち、薬術の魔女の方を見ずにその存在を認めた。
直後、絶望したかのように目を見開く。
『来て、しまったのですか』
彼は、人とは違う音を呟いた。不思議と、その音の意味を薬術の魔女は理解できる。
『…………見られたく、なかった』
掠れたその声が、
『……貴女にだけは、見られたくなかった』
床に突いた両の手が、
『此の姿を』
震えていた。
「……」
改めて、薬術の魔女は目の前の婚約者になる男の姿を見る。
人間とは違う尖った鼻先に尖った耳、湾曲して尖った鉤爪と大きな手。毛皮に覆われた肌、人間というには歪み過ぎていて、獣というには長い歪な四肢。
人間の形をした獣のような、獣の形になった人間のような造形だ。
彼は膝を突いた姿勢で座っており、何かに酷く怯えた様子だった。近付こうとして足を動かすと、靴下越しに糸の束のような感触がする。
自身の足元を見ると、彼の頭髪らしき黒紫色のそれをしっかり踏んでいた。しまったな、と思うがかなり広い範囲の床を覆っているので避けて床を踏むのは難しそうだ。
『……是が、私の……儂の本当の姿だ』
ややあって、彼は小さく零す。
『儂の、魂の形』
ゆっくりと、錆びた蝶番のような緩慢な動きで薬術の魔女に顔を向けた。人間のような目をした、肉食獣の顔だ。そこで、人間の姿をした彼の、歯が鋭く尖っていたことを思い出す。本質に近い形状だったから、きっとあまり見られたくなかったのだ。
『醜いだろう、浅ましいだろう、悍ましいだろう』
その言葉と共に、赤黒く染まった目が薬術の魔女を向く。魔獣のような色の目は、どろりとした濃度の濃い怒りと怨みの色を感じた。それと、恐怖と寂しさに近い感情も。
『拒絶しろ』
大きく見開いた目や顔から黒い液体を零しながら、彼は薬術の魔女に近付いた。のそりと膝が付きそうな姿勢で立ち上がり、背中を曲げ獣のような四足歩行に近い歩き方だ。
『斯様な化け物は嫌だと、言え』
ずるずると長い髪を引きずり、
『嫌ってくれ』
蠢いた髪の一部が薬術の魔女の首に巻き付く。
『……受け入れないで、くれ』
「…………なんで、きみが泣きそうなの」
ゆっくりと首を締め付ける髪を払わず、近付く彼を避けることもなく、薬術の魔女はその異形となった顔を見上げた。熱い息を吐く彼は、本当に苦しそうだ。呪いに蝕まれた身体や、そうなってしまった彼の心の痛みを想像して、薬術の魔女は表情を歪める。すごく痛くて、寂しくて、悲しかった。
「それに、『拒絶しろ』とか『嫌ってくれ』ってお願いは聞けないかな」
そのままそっと、薬術の魔女は自身の手を彼に伸ばす。
「確かに、ちょっとびっくりした」
答えながら、『ようやく彼に触れられた』のだと心の底から安堵した。今まで、彼が決して見せようとしなかった本当の姿。
「……けど、それが『きみ』なんでしょ?」
両頬に手を伸ばし、その小さな手で彼の顔を包み込む。
「わたし…………きみのことすき、だよ」
彼が驚き硬直するのも構わず、
「きみがどんな姿でも、その気持ちは変わらない……と思う」
そう少し頬を染めて笑った。悍ましい姿を見ても、彼女は『好き』だと言ってくれるらしい。そのことに、彼は衝撃を受けた。
「だから安心してよ。わたしは、どんな姿のきみでもいいよ」
黒く濁った魔力で汚れるのも構わず、そのまま腕を伸ばして頭を抱き寄せる。
「絶対に、見捨てないから」
そして、言い切った。
『……儂は、嫌いだ』
薬術の魔女に抱きしめられながら、
『嫌い、です。……こんな姿なんて、望んでいなかった。“出来損ない”と言われ続ける生、等』
彼は呟き、涙を零した。
『儂は唯、奴に届かなくとも、全うな生でなくとも……“人”として生きたかった』
と。
『嗚呼、今でも腑が煮え繰り返る』
ぎり、と奥歯を鳴らし低い声で呟く。
『奴を信頼した、儂の迂闊さが』
『儂の信頼を裏切った、奴の事が』
『儂を蔑み、蹴り、唾を吐いた連中の事が』
『儂を産んだ癖に碌に育てもしなかった奴等の事が』
『何れ程、恨みを募らせた事か』
そして、ゆっくりと薬術の魔女を抱きしめた。
『……自身の先の事は、知っていました。家を呪い滅ぼす事、其れが国を傾ける一因と成る事は』
そっと、壊さないように触れてくれているようで、薬術の魔女は思いの外に優しい力で締め付けられる。
『奴には劣るものの、儂は次席だ。呪猫の中では他依りも秀でている』
よしよしと、あやすように彼の背を撫で、薬術の魔女はその言葉を聞いていた。呪いのように零れる言葉はすさまじい熱量で、きっとそうなった瞬間からずっと抱き続けた、誰にも癒せない感情だ。
『だが儂は、誰にも望まれぬ呪いの才を持っていた。ずっと、奴と比べ続けられる運命にあった。……霊を育てる才は、精霊を混ぜられた時に失ったようです』
ぎゅう、と薬術の魔女を抱き締める力が強まる。悔しさや様々な感情を堪えようとしているのだと、薬術の魔女には感じられた。
『何故、貴女は受け入れられるのだ……儂は、未だに受け入れられていないというのに』
低く、すすり泣くような声で彼は呟く。ぼたりぼたりと、彼の方から雫が落とされていた。
『儂は、生涯ずっと此の儘だ』
その言葉に、薬術の魔女は顔を上げた。
「一生、ねこちゃんなの?」
その、やや斜め上の感想に、見えないのだが彼は顔ごと薬術の魔女に視線を向けた。不思議と落ち着いてきており、彼女のその言葉に嫌な感情が湧かない。
『ええ、そうですね。死ぬまで、ずっとです』
見下ろした彼女は、きっと彼自身の出した黒い液体ですっかり真っ黒に汚れている。
「……それは、しょうがないね……?」
『嫌でしたか』
彼が拭おうとも、それは彼自身の魔力だったので綺麗になど出来るわけがなかった。
「んー、嫌って訳じゃないよ。わたしは、きみがきみならそれでいいの」
汚れるのも構わず、薬術の魔女は彼の顔に頬を寄せる。それから腕を彼の背や胴体に回した。体格差のおかげで脇腹程度にしか届かなかったけれど。
「きみが理性を失って、本当に魔獣化しちゃうなら話は別だけどさ」
頬の、熱く、柔らかい感触が伝わった。
「あーでも。できれば形は、人の方がいいかも」
『人の形が良い』との発言に彼は硬直する。だがそれに構わず、呑気に薬術の魔女は言葉を続けた。
「だってほら、お出かけしたらびっくりしちゃう人とかいるかもだし。それでせっかくのお出かけを邪魔されちゃうのは、ちょっと嫌かな?」
薬草採りなら気兼ねなく一緒にいけるかな、と首を傾げる。どうやら、周囲の人間のため、あるいは2人で気兼ねなく楽しむために、その方が良いと言ったらしい。
「でも。さっきいった通りどんな姿でも、きみのことがすきだよ。だって、器の形が違うだけでしょ?」
『どんな姿でも一緒にいるつもりだ』と、薬術の魔女はまっすぐに彼に告げた。