薬術の魔女の結婚事情
同棲生活
新しい生活の始まり。
「外に出られるようになったんだ、よかった!」
安心しながら薬術の魔女は魔術師の男の元に小走りで近付いた。彼は立ち止まったまま、彼女が来るのを待ってくれている。
外はすっかり夕方になっており、紫色に空は染まっていた。
青々と茂る夏の草木の景色の中、少し強く風が吹く。
「大変、御迷惑をお掛け致しました」
薬術の魔女が魔術師の男の下にたどり着くと、軽く頭を下げ彼は謝罪をした。さらりと揺れる黒紫色の髪に、今日は結んでないんだなとなんとなく思考が過る。かくいう薬術の魔女も、もう魔術アカデミーの制服はもう纏っていない。
「そんな、びっくりしただけでわたしは迷惑だなんて思ってないよ」
微笑み、薬術の魔女は軽く頭を振った。逆光になって見えにくいが、彼の困ったように笑う声が聞こえる。それに不思議と嬉しくなった。
傍まで付くと、逆光でも魔術師の男の様子がよく見えた。特に体も倒れる前と変わらず、怪我も衰弱もしていないようだ。
「きみが元気そうでよかった」
安心して薬術の魔女が微笑む。
「……貴女は」
呟き、魔術師の男は薬術の魔女の蜜柑色の髪に触れた。
「なに?」
「髪が、伸びましたね。其れと、背丈も」
なんとなく、嬉しそうで懐かしそうな声だ。言われてみれば、初めて顔合わせをした時よりも身長差が減ったように思える。
「でも。きみは背が高いから、あんまりそんな気はしないなぁ」
首を傾げると彼は名残惜しそうに髪から手を離した。
「どうしたの?」
「貴女にお渡しするものが在りまして」
視線を向けると、魔術師の男は虚空から小さな花束を出し、そっと薬術の魔女に差し出す。
「御卒業と成人、誠にお目出度う御座います」
「うん、ありがとう……あ、この花ね、痛み止めに使えるんだよ」
受け取った花束が製薬に使える事に気付き、彼女は魔術師の男を見上げた。
「其れはもう貴女に差し上げた物なので、ご自由にお使い下さいまし」
彼はそう微笑む。
「わかった。……あ、そうだ。もう、わたしは寮には戻れないから、これから一緒に住むことになるけど……大丈夫?」
彼の言葉に頷いた後、薬術の魔女はこれからの生活について問いかけた。
「ええ。冬季や春季での休業と同様のものが此れから続くだけでしょう」
「……なーんか、その言い方やだ」
「そうですか。まあ、兎に角」
眉間にしわを寄せるも、彼は軽く流し左手を差し出す。
「帰りますよ、」
そして、とある名を呼んだ。
「うん……ん?」
その手を取ろうとした手を止め、薬術の魔女は魔術師の男を見上げた。
「今、なんて?」
「『帰りますよ』と言いましたが」
目を瞬かせる彼女に、彼は不思議そうに首を傾げる。
「そっちじゃない」
「何を戸惑って居られるのです、」
次は意味あり気に、もう一度その名を呼んだ。そして、少し口元を歪ませて笑った。
「な、なん……で」
名前を、覚えている?
驚き、薬術の魔女は距離を取ろうと身を引く。
「っ、」
だが、いつの間にか腰元に回されていた魔術師の男の腕や手にそれが阻まれた。
「……嗚呼、私が貴女の幼名を呼べる事に驚いていらっしゃるのですね」
目を細め、彼は心底面白そうに微笑んだ。
「なんで」
なんだか今までと少し違う愉悦を含む微笑みに、彼女は驚きと小さな警戒で身を竦める。
「其れは、私には幼名が在りませぬ故に『癒しの神』の影響を受けない為……やもしれませんね」
安心させるためか、いつものような微笑に変わった。
「え、わたし癒しの神には会ってないよ」
少し眉を寄せ、薬術の魔女は答える。あの時に聞こえた声は間違いなく知っている声だった。だから確信は持てている。
「洗礼の際に其の神の御声を聴くと聞きますが……洗礼を、受けなかったのですか」
「洗礼は受けたけど」
「では、癒しの神にはお会いしているのでは?」
やや柳眉をひそめ、彼は問うた。『癒しの神』以外が洗礼を施す事など、通常ならばあり得ない話だ。そもそも、そんな話を聞いたことがなかった。
「洗礼は、おばあちゃんにしてもらったの」
彼女は、はっきりと答える。
「は?」
ふざけているのかと彼女を見下ろすも、まっすぐなその眼差しは真剣そのものだった。
「わたしのおばあちゃん。よくわかんないけど、そこに居たのはおばあちゃん達だったよ」
「……道理で、占わずとも貴女の名が直ぐ視えた訳か」
低く、彼は呟く。
「何か言った?」
「いいえ。或る意味で御揃いのようだと思うた次第ですとも」
真偽はともかく、『癒しの神』から洗礼を受けていないならば同じであると。そう、魔術師の男は薬術の魔女に言った。
「おそろい? そっか」
嬉しそうに彼女は頷く。
「でも、逆になんできみは洗礼を受けてないの?」
そう聞かれると思った、と言いたげに魔術師の男は目を細めた。
「呪猫の家では能力の高い者は付けられた名を変える事なく、要は幼い頃に付けられた名の儘で一生を終えます」
付けられた名は幼名でも洗礼名でもない。だから、成人の儀でも洗礼は受けていないのだと彼は言った。
「へぇー」
そういうこともあるんだなと、薬術の魔女は頷く。
そして能力が高い者、ということはやっぱり彼はただの『出来損ない』じゃないじゃん、と彼女は内心で呟いた。
「それはともかく」
「はい」
薬術の魔女は、新ためて魔術師の男を見上げた。腰に回した手はまだ離してくれない。
「わたしは成人したんだから、その呼び方はどうかと思う」
はっきりと目を見て告げる。だが
「何故?」
彼は彼女を覗き込み、逆に問い返した。
「え」
「呼んでも良いと、貴女は仰ったでしょう?」
そう言い、腰に回していた手で薬術の魔女を撫でる。
それは、確かにそうだ。
幼名だった頃に、『名を呼んでいいか』と聞かれそれを是と答えた。
「でっ、でも!」
魔術師の男の胸板を両手で押し、無理矢理に距離を取る。ようやく彼から離れられた。
「その時は幼名が名前だった、から!」
必死に叫ぶ。
「そ、そんな、あ、あ、赤ちゃんみたいに呼ぶ、なんて」
薬術の魔女は顔どころではなく首や耳まで真っ赤にさせて、言い返した。
成人を幼名で呼ぶ。
それは自分と教えた特別な相手だけが知る、幼き日の秘密の名前で呼ばれるということ。
つまりは『とても愛おしい人』と呼んでいるに等しく、随分と甘い呼ばれ方であるということだ。
きゅ、と彼は薬術の魔女の手を取る。
「ねぇ、」
そして、幼名で呼んだ。
「なん、うわやっぱり恥ずかしい!」
顔に上がった熱が、どうも治らない。きっと、彼に恥ずかしい呼ばれ方をされているからだ。
「帰りましょうか。暗くなりますし」
にこやかな笑みで、とんでもなく恥ずかしい呼び方をされる。
「……これから幼名で呼ぶつもり?」
「ええ。此れも、貴女の名前でしょう?」
不安気に問うと、魔術師の男は肯定した。どうやら覆す気はないらしい。
「んー……」
羞恥で体がそわそわする。
でも覚えてくれていたことが、薬術の魔女は嬉しく思えた。
「御手を。暗くなります故」
「……うん」
逸れないように、と差し出された左手に、薬術の魔女はそっと右手を乗せる。
そうして、二人は家路に就く。