薬術の魔女の結婚事情
触れ合う思考
薬術の魔女から、関係に関するとある提案をされた日の夜。
自室の椅子に座り、魔術師の男は手で顔を覆って深く溜息を吐いた。
「(……嗚呼、)」
実に、上手くいった。
口元が愉悦で歪みそうになるのを手で少し抑え、思考する。
「(まあ、一週間も経たぬ内に提案されるとは思いもしておりませなんだが)」
自分から行くと逃げられるので、あえて極端に離れることで向こうから寄ってくるのを待った甲斐があったもの。
彼女が『寂しいのは苦手』と口にしていたのを思い出し、魔術師の男は躊躇せずその手段をとった。
まあ薬術の魔女には悪いとは思っている。ほんの少しだけだったが。
そして、今のこの態度を彼女に見せればそれこそ信頼的な何かを無くしてしまうだろうから、出さないよう気を配らねばならない。それに、反省したのも、抑えが利かなくなりそうだからと離れたのも、偽りの気持ちではない。やや誇張しただけで。
「(然し。あの小娘は『一緒に練習しよう』等と口にしたが、如何様な手法で慣れようと考えておるのだろうか)」
すぐに顔を元の無表情に戻し、顔から手をずらして左手で頬杖を突く。
「(唯、共に生活を営むだけで慣れようとは思うておりますまいな)」
何れにせよ、相性結婚で結婚するならば子を少なくとも2人は作ってもらわねばならない。そういう契約になっているからだ。
少なくとも近接の一年は割と近い距離で生活し、なおかつ最近のひと月あたりでは距離をもう少し詰めたというのに、ただ距離を詰めて愛のささやきを口にしただけで彼女は逃げ出した。
だから、生活するだけのそれを『練習』だと言われたあかつきには、ちゃんとした夫婦の営み事を行うのに一体何年かかることやらと、頭を抱えてしまうだろう。
むしろ、子を成すまでに時間がかかってしまえば、『相性が良くなかった』と見做されて契約が切れる可能性がある。だが、それだけは避けたかった。
願いの支えにしたのだから、こんな自身を受け入れてくれた唯一の存在だったのだから。
それに、相性結婚の契約に含まれている子供の人数は2人以上産むことで、その期間は結婚して5年以内と定められている。なので、彼女のペースで悠長に待っている暇は恐らくない。
ちなみに相性結婚の制度自体はもうすぐ終わるが、制度の期間中に結婚したならばその夫婦には制度の効力は離婚するか死別するまで有効である。
「(取り敢えず、練習とやらの詳細でも聞いて、無計画か否かぐらいは確認しておきましょうか)」
今は既に彼女は眠っている時間だろうから、問うのは次の夜だ。
小さく溜息を吐き、魔術師の男は椅子から立ち上がった。
×
次の夜。
魔術師の男が帰宅すると、薬術の魔女は普段通り鼻歌を歌いながら夕食を作っていた。この屋敷の調理場は、魔術師の男の身長に合わせて高く作り直されている。だが、現在は薬術の魔女が身体に負担無く調理が出来るよう、調理場の天板に届く高さに調整された魔術式の足場が作られたのだ。
「あ、おかえり」
「はい。只今戻りました」
怖がらせないように穏やかに微笑んで、薬術の魔女が逃げない距離にまで彼は近付く。今の彼女からは、忌々しい男物の香水などの臭いはしない。
恐らく、においを残しっぱなしで大変な目に遭ったのだからと反省して、浄化装置でも使ってにおいを消したのだろう。
魔術師の男も同室の魔術師からどうしても移ってしまうにおいを浄化の魔術で消している。むしろ、新しくにおい移りを防ぐ魔術式を作り上げて服に縫い込んだ。
「(だが、どうせ言い寄られているのは変わらないのでは)」
記憶に残らないほどにどうでもよい存在だろうが、婚約者である魔術師の男自身を差し置いて彼女に近付いているのは腹が立つ。監視の式神が薬術の魔女とその周囲の音を伝えるので、全く相手にされていないのは知っているが腹は立つ。
「(……あの男、如何やって引き剥がして差し上げようか)」
魔術師の男は表情を変えずに内心で思うのだ。
「どうしたの、突然固まっちゃって」
思考に耽ってしまった彼の顔を覗き込み、薬術の魔女は問いかけた。
「……貴女は、」
「ん、なに?」
ぽつり、と低い声で口を開いた魔術師の男は、彼女を見下ろし訊く。
「昨日、『一緒に練習をしよう』とおっしゃっておりましたが、如何様な慣れる練習とやらを行うおつもりでしょうか」
「はっ! そうだった!」
恐らく先ほどまで彼が思考していたものではなかったのだろうが、確かにそのあたりはきちんと決めねばならないことだった。そう、薬術の魔女は今更ながらに気が付いた。
「んー……手をつなぐとか?」
「然様ですか」
首を傾げた彼女に、魔術師の男は穏やかに目を細めて口角を僅かに上げ、微笑ましそうに笑う。
「では、何時から触れ合いますか」
そして首を傾け、彼は問うた。
「えーっと、」
そう言われるとは思いもしていなかったのか、薬術の魔女は目を泳がせ、
「……あした、とか?」
ちら、と魔術師の男を見上げる。
「本当に、明日、貴女は触れて下さいますか」
それを聞き、彼は薄く微笑んだままで言葉を投げかける。どうやらほとんど無計画らしい、と彼は悟った。
「で、できるよ。…………ただ手をつなぐくらい」
「ほう?」
彼女の返答に魔術師の男は柳眉を寄せ、更に目を細める。
「では。『ただ手をつなぐくらい』の事を今出来ない貴女が、明日に成れば繋げられるようになるのですね」
口元に手を遣り、素晴らしい進歩ですね、と小さく笑った。
「ぅぐっ」
口をきゅっと結び、薬術の魔女は後退る。なんだか思ったよりも押しが強いぞ、と少し彼女は警戒を強めた。
「私達は相性結婚で結ばれるのですよ。其の意味が解らぬ程、何も知らぬ乙女では有りますまい」
圧をかけ過ぎないよう、詰め寄らずに彼は口元に遣っていた手をゆっくり下ろした。
「んー、そ………………う、だけど」
魔術師の男に返事をしながら、薬術の魔女は頬を染める。確かに、『相性結婚』で結ばれるのならば、結婚したその先が重要となるのだ。きっと、このままではその先に時間が更にかかるだろうと、彼は判断したに違いない。
指定された期間内に子を作れなければ、契約違反として強制的に離婚することになるはずだ。
「今からに、しませんか。唯、指先を合わせるだけで宜しいのです」
薄い手袋に覆われた手を差し出し、魔術師の男は提案する。
「今日、少しでも触れ合った事実が有れば、次はもう少し触れ易く成るのではと思うのです」
その提案に、そうかも、との思いが首をもたげた。明日へと先延ばしにすると、更に恥ずかしい思いが募って逃げてしまうかもしれない。
「……………………ゆびさき、合わせるだけなんだからね」
「はい」
頬を染めた彼女の返答に、彼はゆったりと頷いた。