薬術の魔女の結婚事情
触れ合う胴体
次の夜。
「貴女が先に言ったのですからね」
「はめられた!」
にこにこと笑顔の魔術師の男に両手を手袋越しに握られながら、薬術の魔女は悔しさで顔をくしゃくしゃにした。要は先に大きな課題を提示し本命を受け入れてもらう話術に嵌まってしまった、ということだ。多分。むしろ、大きな課題も無理矢理押し通された感じがするのだが。
「さ、こちらに来て下さいまし」
「……やだ」
ソファの上で両腕を軽く拡げてみせる彼に、彼女はぷるぷると首を振って拒否の意思を表す。
「そもそも、今日はきみから触ってくる日じゃん」
「私から行けば、貴女は逃げるではありませんか」
薬術の魔女が口を尖らせて不満を零すと魔術師の男は少し憮然とした様子で返す。
「むーん」
それは急に近付いたからだもん、と言いたかったが、そう答えてしまうと『ゆっくりならば近付いても良い』と遠回しに言っている様な気がしてしまい、言い返せなかった。
「そういえば」
「ん?」
ふと彼は思い出した様子で
「『私の言う事を一つ、何でも聞く』……等と言う約束が、有った様な」
ちら、と魔術師の男は薬術の魔女を見る。
「!!」
それを受けて彼女は、びっ、と身体を強張らせた。確か、魔術アカデミー四年生の頃に結んだ約束だったはずだ。
それに『まだ覚えていたのか』と言う気持ちと、『確かにまだ使われてない』と言う気持ちが湧き起こった。
「……ふむ。覚えていらした様ですね」
薬術の魔女の様子を見、自身の顎に手を遣り魔術師の男は呟く。
「な、なんだっけー。そんなやくそく、あったかなー」
咄嗟に、ぷひゅー、と鳴らない口笛を吹き彼女は必死に目を逸らした。
「おや、忘れてしまったのですか。残念です」
口元に手を遣り、少し寂しそうな様子で彼は言う。
「……」
どうにか誤魔化せたかな、と安堵した時
「成らば、貴女が自らの意思で、私の元まで来て下さるのですね」
魔術師の男はにっこりと笑顔で薬術の魔女に言い放った。最近見た中でもかなり上位に入る部類の笑顔である。
「えっ」
「そうではない、と?」
目を見開く彼女に、彼はにこにこと笑顔のまま見つめている。薬術の魔女には拒否権は無いらしい。
そろー、と、出入り口の方に下がってみるも、勝手に扉が閉まった音がした。恐らく他の扉や庭に面している掃き出し窓も鍵が閉まっている。
「……ねー、なんかわたしを閉じ込めないって感じの約束しなかったっけ」
口をきゅっと結んで眉間にしわを寄せて薬術の魔女が訴えると、魔術師の男は少々意外そうな顔をして
「然し。貴女は此の現状を嫌がってはいないでしょう」
と、首を傾げた。
「なんかそれ、わたしに変な趣味があるみたいに聞こえるんだけど!」
「嗚呼、失礼。今の処は逃げる気が無い、のですね」
「んー」
彼の修正に彼女は口をへの字にした。
「……もう、勝手にちゅーとかしない?」
ちら、と魔術師の男を見上げて薬術の魔女は問う。
「はい。約束しましょう」
にこ、と彼は微笑んだ。
それには嘘も含みも無いように思えた。
だから、彼女はそっと近付く。
×
そっと、魔術師の男に近付き胴体に腕を回して抱きしめた。
薬術の魔女が腕に力を込めると、彼の硬い肉体の弾力と体温を直に感じる。それに、魔術師の男が身に纏っている服の匂いや魔力の匂いが漂い、胸に耳を当てると心音が聞こえた。
なんだかとても居心地が良く、更にぎゅっとしたくなる。なので、そのまま抱きしめ、彼の背中と腰の辺りに手を回した。だが、
「……すみません、腰は止めて下さいませんか」
そっと、魔術師の男自身に腕を外された。
「なんで?」
「いや……その」
問うと、彼は目を泳がせる。
「本当に、我慢が利かなくなります故。止めて下さいまし」
その顔を見ると、割と赤くなっていた。
「我慢?」
自分から来いと言った癖にそんな事言う? と彼女が首を傾げるも、
「猫……なので。……いえ、猫依りも少々質が悪いと言いますか」
少し言い難そうに魔術師の男は言葉を零す。
「ふーん?」
「……端的に言えば、神経が割と前側に繋がって居ります故、その気が無いならば触れないで下さいまし」
「……その気?」
そういえば、と薬術の魔女は思い出した。猫は尾の付け根に触れられると心地良いと感じるらしい、と。動物に関連する本で見た気がするが、猫の血が混ざった彼にも適応されるらしい。
実は縦に裂けている瞳孔や口内のことと言い、自身の婚約者が割と猫。そう、薬術の魔女は学んだ。
そんなことが有ったものの、薬術の魔女が慣れるまでしばらくは体を抱きしめることになった。