薬術の魔女の結婚事情
ほんの少しだけ、先の話。
「そういえばだけど、来期に修学旅行があるんだ」
魔術師の男が採点している様子を眺めながら、薬術の魔女は言った。採点中の彼は普段よりも更に目が伏せ気味になっており、何故だかつい視線が向いてしまうのだ。
「……そういうものも、有りましたね」
顔も上げずに魔術師の男は冷淡に返す。
「貴族コースは知らないけど、魔術コースの人達はお城や軍部の内部、時計塔、天文台の見学で」
「……ふむ」
全て、魔術師に関係のある場所のようだ、と、魔術師の男は軽く相槌を打つ。そして、自身が魔術アカデミー生だった時も同じような場所だったはずだと思い出した。
時計塔と天文台には大きな魔術師の研究機関があり、国の大抵の魔術師はそこに一度は所属したいと思う(らしい)場所である。
「わたしのいる薬学コースは、生兎と祈羊、薬猿の施設の見学に行くんだって」
生兎は病院や福祉、祈羊は教会と遺物研究、薬猿は薬や科学に深く関わる『古き貴族』の家だ。
『古き貴族』には、死者を悼み守る墓地である死犬、風水を扱う国の守護である呪猫、毒を生成する暗部である毒蛇、海の交易を行う貿易商の交魚、出産や育児を手伝う病院の大元である生兎、聖職者の大本山である祈羊、薬を生成する研究機関である薬猿、空の通流を行う組合の通鳥という八つの家があり、位置は、上から北、北東、東、南東、南、南西、西、北西の位置に、国の周囲を囲うようにある。
身分は大公爵であり、国内では王家と対等に並び立てる貴族家なのだ。国軍の施設は置いてあるものの、私兵の方が影響が強く、土地内で独特な治政を敷いていた。
他にも家はあるが、この8つの家の土地は他と比べて随分と広く、『古き貴族』の土地だけが、国境に面している。
また、それぞれで独特な文化を持っているので、小さな国のような状態にもなっていた。
それはともかく。
彼女の所属する薬学コースは医者や聖職者と薬師になる勉強を行うので、生兎、祈羊、薬猿は薬学コースの者が行くにはうってつけの場所ということらしい。
「…………然様ですか」
答案に視線を落としたまま、低く答える。王都から離れるので、移動の費用がかなりかかりそうな気がするが、問題はないという。
「『古き貴族』が直接経営してる施設って滅多に行けないらしいから、ちょっと楽しみなんだ」
「……」
ちら、と薬術の魔女を見、魔術師の男は答案用紙に視線を戻した。彼女はにこにこと上機嫌そうな様子で、心の底から心待ちにしているようだった。
「どうしたの?」
「何も、御座いませぬ」
言いながら答案を返す。相変わらず、教えた箇所はきちんと問題なく答えられていた。薄らと、このように自分が教えなくとももう問題はないのでは、と魔術師の男には思えてくる。
「そう?」
「貴女は薬草がお好きですから屹度、薬猿の施設の見学は良い刺激になるでしょうね」
首を傾げる薬術の魔女に、彼は薄く笑いかけた。
「うん、すごく楽しみ!」
頷き、薬術の魔女は笑みを浮かべる。
「わたし、冬休みは家に帰るんだけど、きみはどう過ごすの? やっぱり家族のところに帰る?」
帰り際、薬術の魔女は魔術師の男に問いかけた。空にはまだ太陽があり、まだ暗くはなかったがそろそろ良い頃合いだろうと彼に帰宅を促されたのだ。
「……私は宮廷魔術師の身で御座います故、其の時期は宮廷の者と過ごすでしょうね」
彼女の問いに、彼は普段通りに冷ややかに答えた。
魔術アカデミー生達が冬季休業で休む頃は、間違いなく年越しの儀の準備がある。
「其れに。儀式の準備は終盤を迎えると下男下女や聖職者だけでなく、私の様な宮廷魔術師も体調を整える為に色々と自由が利かなくなります」
「へぇ。お家には帰らない感じ?」
そう問いかけた瞬間、ほんの一瞬だけ、僅かに魔術師の男の表情が陰った……ように見えた。
「そう、ですね。儀式が終わり次第、一旦は此の屋敷に戻りますが。……実家には帰れませんので」
「そっか」
それは気のせいだったかな、と思える程に僅かな変化だった。
「…………何か?」
「なんでもないよ。きみのお仕事はすっごく大変なんだなって思っただけ」
だが、薬術の魔女はこれ以上は聞かないでおこうと、話題を少し逸らす。
「そうですね。ですが、此れも国の為成れば」
魔術師の男は静かに微笑み、そう答えた。
「年越しの儀って何するの? あ、言えないやつなら言わなくていいよ」
城で行われる儀式など、薬術の魔女は今まであまり興味は持っていなかった。だが、婚約者である魔術師の男が関わっているとなると、なんとなく気になるのだった。
「……そうですね。強いて言えば、『これからもこの国が長く続きますように』と祈る儀式で御座いますよ」
「へぇー」
儀式が終わった後の惨状については、告げないでおく。これは知らない方が良い話だからだ。
それに年越しの儀自体の半分くらいは、そういう国防に関連する名目の儀式なので、嘘は言っていない。