薬術の魔女の結婚事情
誰かの内情:其の参
ずっと、声が聞こえていた。
「目醒めろ」と、「理を、契りを壊せ」と。
酷くうるさく、耳障りな声だ。
僕は目覚めたくない。
ずっと、眠ったままで居たい。
世界を変えたくない。
せっかく、あの子が幸せになれる世界なのだから。
どうか、どうか。
このまま深く、眠らせて欲しい。
×
目を開くと、寮の自室の壁が目に入る。それと同時に、別の不愉快な声が聞こえた。
『……俺は、大変なことを…………間違っていたのか』
またか、と思いた溜息を吐く。朝っぱらからもだけれど、最近ずっと『そう』だから気が滅入ってしまう。
ベッドから出て、声の発生元まで近付いた。
「ねぇ。うるさいからやめて欲しいんだけど」
『…………』
聞こえていないのか、ずっと何かを呟く声が聞こえる。
「……」
苛ついたので、勢いに任せて布団を剥いだ。
「ねえ、『勇者様』!」
「その呼び方やめろ!」
ガバッと勢いよく、焦茶色の髪の男子が起き上がる。
少し騒がしく偉そうだった勇者様とは、同時期に魔術アカデミーに来たからか、同室になった。『勇者様』呼びは、自称と周囲からそう呼ばれてたからそう呼んでいるだけ。他に意味があるなら……そうだ。少し、不快そうな顔をするからかもしれない。
「じゃあやめてくれないかな、それ。うるさいったらありゃしない」
「……」
そういうと、勇者様は項垂て顔をしかめる。すると焦茶色の髪がさら、と揺れる。
その静かに項垂れている様子だけを見れば、何故この勇者様がモテるのか、分かる気がした。でも普段の表情と態度がそれを台無しにしてる。
髪は、セットしていない方が良いような気がするけれど、彼は髪をセットしなきゃ気が済まないらしい。
「反省してるんでしょ。もうやらないんでしょ。なら、もうそれでいいじゃん」
「……だが、」
どうも、勇者様には気がかりがあるようだ。でも、同室の僕からすればずっとウジウジされている方が嫌だった。さっさと立ち直ってどうにか現状より良い方になって欲しい。
「だがもしかしも無い! うざい! 気が滅入る!」
どうせ、鈍感なこの男に遠回しに何かを言っても通じないのだから、はっきり言ってやった。
「…………悪い」
正直に言えば、勇者様の暗い顔が、さらに辛気臭くなる。前までのあの偉そうで不遜で、堂々とした態度はどこに行ったんだろう。まだあっちの方がマシだった。
「そう思うんだったらやるな! そして余計なこと考えちゃうのなら、前みたく早朝の走り込みしてきてよ」
運動すると良いって言うし。提案するけど、彼は全く動く気配がない。
「……」
「もう! 一緒に走ってあげるから!」
「…………分かった」
じっと見るその目に、僕が根負けしたみたいだ。ああ本当に嫌になる。
×
「(……なんで、こんなことをしているんだろう)」
思いながら、勇者様と並走する。彼は落ち込むようになってから、しばらく走っていなかったみたいだけれど、体力の衰えらしきものは一切感じられなかった。
きっと、何かが特殊なんだろう。
まあ、こうして一緒に走っているのは勇者様が手加減をして僕に合わせているからだ。そんなところに謎の優しさを発揮しないで欲しい。
そして、僕がこうして勇者様と走ってあげているのは『同室になったのが運の尽き』ってやつだろう。
けれど。意外と世話を焼くのは悪くない気持ちだ。
そして走りながら、僕は少し昔のことを思い出していた。
×
昔は、暗くて狭い所にいた。
気が付いたらそこに居て、ずっとひとりぼっちだった。
冷えた石と枯れた植物でできた、小さくてぼろぼろの祠の中に。今思えば、建物の形状すらしていなかった気もする。
そして当たり前の話だけれど、僕は意識を持つより前の記憶を持っていなかった。どうして、僕は封じられていたのだろうと、思っていた。考えていた。
祠に縛られていた上に肉体も無くて動けなかったけど、たまに女の子が話しかけてくれたんだ。
「なにしてるの?」
って。
初めて話しかけられたその瞬間から、意識がはっきりと覚醒したように思う。
「せまくないの?」
言われて、ここの窮屈さと、外の広さを認識した。
「おはなしする?」
訊かれて、僕にも対話する能力が備わっている事に気付いた。
「これはねー、なんかちょっとぴりってするやつー」
女の子はたくさんの植物を持って、僕の前に現れる。
「みてー、これね、獲ったの」
たまに、仕留めた動物の時もあったけど。
誰もが素通りする僕を、彼女は、無邪気な声で話しかけた。
明るい髪色が太陽みたいで、魔獣と似た色なのに全く濁っていないその目が眩しかった。
ある日、唐突にその縛りが解けた。
急に訪れた自由に、驚きと戸惑いが隠せなかった。
でも、僕は自由になったんだ。
どこに行こう。
そう考えた時。『あの子のところに行こう』って思った。
僕を、見てくれたあの子の元に。
それで、あの子と似た気配のする場所に行った。
でも、あの子は居なかった。
『しょとうぶ』に行ったらしいと、そこで出会ったひとは答えた。
そのあと僕はそのひとの手を借りて、ようやく魔術アカデミーまで来た。
彼女の、近くにまで辿り着いた。
僕は、その子が大好きだ。
だから、あの子のためだったらなんでもするつもりなんだ。
もらった腕輪にそっと触れる。これは僕の在り方を変える腕輪。
使い方は知っている。
『君から僕に手渡される』その流れが必要だった。
その後は――。