薬術の魔女の結婚事情
春休み。
やがて寒さが酷くなり、春休みが始まる。
薬術の魔女は、魔術師の男が作った木の札を用いて彼の屋敷に来ていた。
そして移動した先の景色に、彼女は少しの満足感と安堵を感じ嘆息する。
木の札での移動先は玄関ではなく、魔術師の男からもらった部屋になっていた。
寮の自室より広いこの部屋には、勉強用の机と椅子、水差し、仮眠用のベッドと少しの毛布と、移動用の木の札しかない。
何にも使っていない部屋らしいのだが、薬術の魔女が部屋に行く頃にはいつも部屋が暖められている。恐らく、急な変化で体調を崩さないための、魔術師の男なりの気遣いなのだろう(と、薬術の魔女は思った)。
部屋から廊下へ出て、すっかり見慣れてしまった屋敷の内部を歩く。屋敷の匂いも落ち着くし、歩く際の床を踏み締める感触や扉の蝶番の音も、簡単に思い起こせた。
「やっほー、きちゃった」
彼がよく居る、恐らく自室か書斎らしき部屋に向かう。すると案の定、魔術師の男は書類だらけのその部屋で本を読んでいた。資料達は山積みになっており、そこかしこに付箋らしきものや別の書類やらが挟まっている。開いている本には沢山の文字が書き込められたり角が擦り切れていたりと、使い込んでいるでろあろう痕跡が見えた。
「……アカデミー内に残られた御学友の方とは遊ばれないのですか」
軽く挨拶をする薬術の魔女に、魔術師の男はやや呆れた様子で溜息を吐く。それから振り返り、彼女を見る。春季休業だからか、魔術アカデミーの制服ではなく、彼女自身の私服姿になっていた。
「んー、なんかみんなやることがあるとかなんとか。わたしはすごくひま。絶賛ひま中だよー」
「然様ですか。……成らば、アカデミー内部に在る図書館の書籍等は読みましたか」
「興味があるやつはほとんど読んだ」
少し拗ねたように口を尖らせ、薬術の魔女は答えた。
「だから。きみのおうちの、書庫の本を読みにきたの」
そして、むん、となんだか誇ったような顔で彼女は魔術師の男に言い放つ。もう一つ、他にも彼に会いたかったなどという理由もあったがそれは言わないでおいた。
「『読んで良い』って、きみが言ったもんね」
「そうですね。間違い無く」
「ってことで本読ませてくれる?」
「無論ですとも」
頷くと魔術師の男は立ち上がり、部屋から出る。
「では、此方に。案内致しますので付いて来なさい」
「わー、楽しみー」
×
当たり前の話だが、廊下は少し寒かった。
この屋敷自体にかけられている空調関連の魔術は割と新しいものらしいが、外の寒さが強いらしい。
廊下から見える外は真っ白で、獣の唸り声のような風の音が絶え間なく聞こえる。
「此方ですよ」
廊下を少し進んだ先の、屋敷の奥に近い部屋に案内された。
部屋はやや狭く、物置のような保存庫のような無機質さと冷ややかさがある。本棚は在るが、そこには簡単な技術書や雑誌のようなもの、情報誌が詰め込まれているだけだ。それと、本を修復できそうな道具が一揃い。
「此処は予備室の様なもので御座います」
丁寧に、彼は答えてくれた。
「さ、もう少し此方へ」
そして部屋の奥にもう一つ扉が有り、それを魔術師の男は開ける。
そこには下へと下がる階段があった。
×
階段を降りながら、周囲から漂う紙や印刷物の匂いが薬術の魔女の鼻腔を満たす。
「……わぁ……」
階段を降り切った先では、大量の本棚とそれらに綺麗に収まった本達が並んでいた。
「いっぱいの本」
これが求めていた物だと、薬術の魔女は直感的に感じる。これこそ、彼の本棚だと。
「屋敷の地下の殆どを占めて居りますからね」
彼女の何のひねりもない言葉に魔術師の男は丁寧に返す。屋敷の建物よりもなんだか広い気がするので、恐らく空間を拡張する魔術も少しくらいはかかっているのだろう。
「……貴女の興味を唆る書籍が有れば良いのですが」
言いつつ、彼は薬術の魔女に一枚の紙を手渡す。
「なに、これ」
「書籍の分類場所を載せた案内図です。殆どが魔術の本で御座いますが……魔術にも分類が有るでしょう」
「なるほどー」
わざわざ、作ってくれたのだろうか。と思いながら薬術の魔女は紙を受け取った。
「序でに、其の紙を所持している成らば此処へ何時でも出入りを可能にする術を掛けました」
「へー」
薬術の魔女の生返事に、魔術師の男は小さく息を吐く。彼女は、周囲にある新しい本に興味をほとんど奪われている様子だった。
「……此れより暫しの合間、私は此処には戻りませぬが貴女は御遠慮無くお越し下さっても構いませんので」
聞いていないだろうと思いながら魔術師の男が書庫の利用について告げると、
「なんで戻ってこないの?」
薬術の魔女は振り返り問いかける。
「……『春来の儀』の準備等で忙しくなります故」
意外と聞いていたらしいそれに、彼は少し動揺してしまった。それと、僅かだが感情の揺れも有る。
「ふーん……そうなんだ」
少し口を尖らせた薬術の魔女はややつまらなそうな表情をしながらも、納得した様子で頷いた。
「そうでした。入ってはならぬ部屋の戸は術で閉じ、開かないようになって居りますので、くれぐれも無理矢理開けぬ様、お気を付けて下さいまし。怪我をしてしまいますからね」
「はーい」
彼女の返事に満足そうに頷き、
「其れでは、暫しの別れです」
と、魔術師の男は薬術の魔女を置いて書庫から出て行った。恐らく、そのまま仕事場に向かったのだろう。