白薔薇園の憂鬱

§1『宇宙色のカップ』 第1章 第1話

 鼻先1㎝まで、そのカップに顔を近づける。
触れることは決して許されていない。
高さ20㎝の、縄文土器を思わせるぐるぐると波打つように渦巻いた文様と取っ手のついた円錐状のカップは、『宇宙(そら)の青』と称されるまだらに入った青のグラデーションの中に、キラキラと無数の星の輝きを放つ細かな結晶がちりばめられている。

 値札に付けられたエスティメートは26万~48万円。
一般事務職の私にはとてつもなく厳しい価格帯だが、それでも手を出そうと思えば出せない範囲ってわけじゃない。
このためにずっと生活費を切り詰めてお金貯めてきたんだから、チャンスを逃したくない。
下ろした貯金ほぼ全額の50万円を元手に、いつも以上に気合いが入っている。
今回の勝算は高い。

 本来ならもっと評価されていい作品だ。
フンと荒い鼻息を吹き飛ばし、華やかな展示会場を通り抜ける。
他の作品には一切興味はない。
てゆーか、興味の持ちようがない。
真っ白な絨毯の敷き詰められた広々とした会場にゴトゴトと置かれる陶器の数々は、ちらりと見ただけでついている0の数にめまいがする。
特に会場中央に置かれた今回の目玉作品の、このランプの作者は知ってる。
美術の教科書に名前が載ってたような人だ。

 ぼんやりとオレンジ色に内側から照らされる光が、磨りガラスのような材質の上に焼き付けられた美しい花柄を浮かび上がらせている。
倒せば壊れてしまうような繊細な作品であることは間違いないのに、温かで柔らかな光が、気持ちまで緩やかにしてしまう。
きれい。

 美しい作品を見れば、いつだって心を奪われる。
その作品を手がけた人のことを、それを贈られた人物のことを思う。
こんな美しいランプの明かりだけを灯した部屋で、ゆっくり珈琲でも飲んで過ごす夜はどれだ……。
現代アート作家だけど250万? へー。

 一気に目が覚めた。
私には生涯無縁なものだ。
だけどせっかく間近に見られたんだから、拝んでおこう。
必勝祈願だ。
私はそのランプの前で手を合わせると、パンパンと威勢よく拍手を打つ。
どうぞ今回のオークションが上手く行きますように。

 ここはほぼ毎月定期的に開かれている、日本では有名大手のデイリーオークションだ。
気合いを入れ直し、オークションルームにはいる。

 どこのオークション会場でもそうだけど、こういう所に集まる人々は、やっぱりお上品でお洒落な方々が多い。
もちろんラフな格好で来ておられる方もいらっしゃるけど、超個性的なお金持ちっていう感じだ。
私は自分の持っている一張羅、といってもリクルートスーツなんだけど、それを着込んで戦に臨んでいる。

 会場で浮かないようにと、ブランドのお洋服を買おうかとも思ったけど、値段を見てあっさりあきらめた。
私が欲しいのは、きれいなお洋服なんかじゃない。
競り落とされる作品自身だ。
着ている服なんかに無駄遣いしている場合じゃない。

 生まれついてから今の今まで、ちゃんと『お嬢さま』である人たちと争っても勝ち目はないから、勝てないと分かってる勝負なんてやらない。
自分が傷つくだけだし。
だけどそれでもわずかに残っている自尊心が、私は個人バイヤーですよー、お仕事ですよー、趣味で来てるわけじゃないですよーっていう、雰囲気をかもし出したくて、ぴったりとなでつけた髪に、後ろで一つにまとめたお団子ヘアにさせている。
その上にこのリクルートスーツだ。
完璧。
どう見たって営業の下請けにしか見えないに決まっている。
就活と入社式以外で着ることはないのにと、泣き泣き買ったダッサいスーツが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
着回し最強。

 とにかく、大金持ちのおじさまから、お仕事として委託を受けました的雰囲気で、会場の椅子に座る。
オークションでの競り勝負は一瞬だ。
低価格帯から始まるテンポのよい高速オークションに、一瞬の気も抜けない。
今回のお目当ての品は、ロット番号8番。
ライバルも少ない。
きっと大丈夫。
オークションが始まった。

「ロット番号1番。2万円、2万5千円、3万……、いらっしゃいませんか?」

 オークショニアの声が、ぎゅうぎゅうの会場で静かに響き渡る。
ダンッ! という落札が決まった時にならされるハンマーの、心地よくも緊迫感のある音が、腹の底を掻きむしる。
とにかく私は、今いつになく真剣なのだ。

「ロット番号1番、5万円で落札されました。続きまして2番、8万円からのスタートです」

 会場に写し出された作品案内画面のなかの、ロット番号が2番に切り替わった。
1ロットの競りにかかる時間は2、3分しかない。
すぐにお目当ての8番がやって来る。
今回の私のパドルは27番だった。
この番号札を上げて落札に挑む。

「ロット番号7番、32万円で落札されました。続きまして、8番、15万円から」

 来た! 
三上恭平、全盛期の秀作といわれる陶芸作品! 
さっと27番のパドルを上げる。
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