白薔薇園の憂鬱
第10話
「おい。お前らなにをやってんだ!」
このよく分からない人は、もうずっと機嫌が悪くて、ずっと怒っていて、なにがしたいのか全く分からない。
食事の後でいつの間にか姿を消していたのに、戻ってきたと思ったらいきなりこれだ。
「まだこんな所にいたのか。詩織もさっさと、颯斗くんを自分の部屋に案内しなさい」
父親以上にドストレートなセリフに、詩織さんは渋々立ち上がる。
その様子を見て、佐山CMOも立ち上がった。
そう。
私はこの隙に帰ろう。
叔父の篤広氏に先導されて、リビングを出て行く二人の背中をしっかりと見送る。
私はこのチャンスを逃すまいと立ち上がった。
「今日は本当に、突然お邪魔して申し訳ございませんでした。お食事、とても美味しかったです」
孝良氏も立ち上がる。
ようやくまともな愛想笑いを私に向けた。
お父さまにとっての一番の邪魔者が自分から帰ると言っているのだ。
引き留めるわけがない。
「私は先に失礼させていただきます。佐山CMOには、よろしくお伝え下さい」
「えぇ、分かりました」
互いに今日一番の、心からのにっこにこの笑顔。
おっしゃ。これで帰れる。
「祖父のカップ、大切にしてくださいね」
「もちろんです。今日は来てくれてありがとう」
えぇっと、私の持ってきた鞄はどこかな?
周囲を見渡す。
あぁ、あったあった。
それはリビングの入り口に近い、ソファの後ろに置かれていた。
さぁ帰ろう。
私が鞄に手を伸ばした瞬間、廊下を走ってくる足音が聞こえた。
その乱暴な足音に、開け放しにされていたドアを見上げる。
飛び込んで来たのは、詩織さんだ。
「詩織! お前、何やってんだ! 早く自分の部屋に戻って、颯斗くんの相手をしなさい!」
「イヤよ! どうして私がそんなことしなくちゃいけないの!」
娘のこれまで以上の剣幕に、父孝良氏も慌てふためいている。
「お前にとって、これ以上いい結婚相手はいないだろうが!」
「そんなの、お父さんが決めることじゃない! 私は颯斗さんを、そんなふうに見たことないから!」
あぁ、やっぱりな。
そりゃそうだよね。
そりゃ佐山CMOはイケメンでお金持ちだけど、それだけで結婚って言われても、難しいよねぇ。
佐山CMO、性格にクセありそうだし。
「とにかく早くこのカップを持って、彼に謝りに行きなさい!」
この父娘は、再び大げんかを始めてしまった。
父の孝良氏はカップの入っている木箱をシェルフから取りだす。
あぁもう、さっき大事にしてって言ったばっかりなのに。
そんな乱暴な扱いをして……。
「そんなバカみたいな作戦を勝手に立てて、あの人を呼び出したのは、お父さんでしょ!」
彼女は今まで見せたことのない強い意志で、自分の父親を見上げた。
「私、颯斗さんに言われてここに来たの。僕のことは大丈夫だから、ちゃんとお父さんと話し合ってきなさいって」
「なんだそれは! そんなことを彼に言われたくらいでどうする!」
「お父さんは、いつだって私のことをちゃんと見てくれてないじゃない。現にいまだって……」
この父娘のことは気になるけど、これ以上ここにいても帰りが遅くなるだけだ。
私は置かれてあった鞄を手に取ると、こっそりと廊下に抜け出した。
「いいからカップを持って、早く部屋に戻りなさい!」
孝良氏の声が廊下の外まで響いてくいる。
おじいちゃんの大切なカップが、こんなことのための道具にされるなんて思わなかったし、知りたくもなかった。
悲しいけど、どうしようもない。
私は玄関に向かって、小走りに廊下を駆け抜けた。
背後のリビングからは、父娘の怒鳴り合う声がずっと響いている。
お嬢さまをやるのも大変だ。
それでも一つ屋根の下に暮らす家族のいることにうらやましいと思い、なに不自由のない生活を妬ましくも思う。
結局ないものねだりなんだ。
立派なお家の立派な玄関には、場違いなほどみすぼらしい自分の靴がちょこんと端っこに置かれていた。
いいんです。
なんだって。
これは単なる事実なのですから。
立派なお家も喧嘩出来る家族も素敵な恋人も、私には縁のないもの。
思い出の品だって、買い戻すお金も力も持っていない。
来るんじゃなかった。
ドスン!
片方の靴に足を突っ込んだ瞬間、二階から大きな物音が聞こえた。
何事!?
振り返ると、物音に驚いた詩織さんと孝良氏も廊下に飛び出している。
二階から学さんの声が聞こえた。
「颯斗さん! 大丈夫ですか?」
孝良氏は弾かれたように階段を駆け上がる。
不安そうに潤ませた詩織さんの瞳と、私はうっかり目を合わせてしまった。
「あ、紗和子さん……。もう帰る……んで……。あ、いや。なんでもないです」
詩織さんの美しい横顔が、痛々しくうつむく。
そんな姿を見せられたら、どうしようもないじゃないか。
「一緒に様子、見に行きますか?」
詩織さんはすがるようにパッと顔を上げた。
「お、お願いします!」
この場に彼女を残してでは、さすがの私だって帰りづらい。
手にしていた鞄をリビング入り口すぐの脇に戻すと、詩織さんと共に二階へ向った。
階段を上がると、彼女の部屋の入り口付近で佐山CMOは倒れていて、それを学さんが助け起こしていた。
「くっそ、あの野郎……」
佐山CMOは苦しそうに脇腹を触っている。
叔父の篤広氏も部屋から出てきた。
「立てますか?」
学さんに支えられ、佐山CMOはようやく立ち上がった。
「こんなもてなしのされ方をするのは、生まれて初めてですよ」
怒りに満ちあふれた彼に、孝良氏の顔色は変わった。
このよく分からない人は、もうずっと機嫌が悪くて、ずっと怒っていて、なにがしたいのか全く分からない。
食事の後でいつの間にか姿を消していたのに、戻ってきたと思ったらいきなりこれだ。
「まだこんな所にいたのか。詩織もさっさと、颯斗くんを自分の部屋に案内しなさい」
父親以上にドストレートなセリフに、詩織さんは渋々立ち上がる。
その様子を見て、佐山CMOも立ち上がった。
そう。
私はこの隙に帰ろう。
叔父の篤広氏に先導されて、リビングを出て行く二人の背中をしっかりと見送る。
私はこのチャンスを逃すまいと立ち上がった。
「今日は本当に、突然お邪魔して申し訳ございませんでした。お食事、とても美味しかったです」
孝良氏も立ち上がる。
ようやくまともな愛想笑いを私に向けた。
お父さまにとっての一番の邪魔者が自分から帰ると言っているのだ。
引き留めるわけがない。
「私は先に失礼させていただきます。佐山CMOには、よろしくお伝え下さい」
「えぇ、分かりました」
互いに今日一番の、心からのにっこにこの笑顔。
おっしゃ。これで帰れる。
「祖父のカップ、大切にしてくださいね」
「もちろんです。今日は来てくれてありがとう」
えぇっと、私の持ってきた鞄はどこかな?
周囲を見渡す。
あぁ、あったあった。
それはリビングの入り口に近い、ソファの後ろに置かれていた。
さぁ帰ろう。
私が鞄に手を伸ばした瞬間、廊下を走ってくる足音が聞こえた。
その乱暴な足音に、開け放しにされていたドアを見上げる。
飛び込んで来たのは、詩織さんだ。
「詩織! お前、何やってんだ! 早く自分の部屋に戻って、颯斗くんの相手をしなさい!」
「イヤよ! どうして私がそんなことしなくちゃいけないの!」
娘のこれまで以上の剣幕に、父孝良氏も慌てふためいている。
「お前にとって、これ以上いい結婚相手はいないだろうが!」
「そんなの、お父さんが決めることじゃない! 私は颯斗さんを、そんなふうに見たことないから!」
あぁ、やっぱりな。
そりゃそうだよね。
そりゃ佐山CMOはイケメンでお金持ちだけど、それだけで結婚って言われても、難しいよねぇ。
佐山CMO、性格にクセありそうだし。
「とにかく早くこのカップを持って、彼に謝りに行きなさい!」
この父娘は、再び大げんかを始めてしまった。
父の孝良氏はカップの入っている木箱をシェルフから取りだす。
あぁもう、さっき大事にしてって言ったばっかりなのに。
そんな乱暴な扱いをして……。
「そんなバカみたいな作戦を勝手に立てて、あの人を呼び出したのは、お父さんでしょ!」
彼女は今まで見せたことのない強い意志で、自分の父親を見上げた。
「私、颯斗さんに言われてここに来たの。僕のことは大丈夫だから、ちゃんとお父さんと話し合ってきなさいって」
「なんだそれは! そんなことを彼に言われたくらいでどうする!」
「お父さんは、いつだって私のことをちゃんと見てくれてないじゃない。現にいまだって……」
この父娘のことは気になるけど、これ以上ここにいても帰りが遅くなるだけだ。
私は置かれてあった鞄を手に取ると、こっそりと廊下に抜け出した。
「いいからカップを持って、早く部屋に戻りなさい!」
孝良氏の声が廊下の外まで響いてくいる。
おじいちゃんの大切なカップが、こんなことのための道具にされるなんて思わなかったし、知りたくもなかった。
悲しいけど、どうしようもない。
私は玄関に向かって、小走りに廊下を駆け抜けた。
背後のリビングからは、父娘の怒鳴り合う声がずっと響いている。
お嬢さまをやるのも大変だ。
それでも一つ屋根の下に暮らす家族のいることにうらやましいと思い、なに不自由のない生活を妬ましくも思う。
結局ないものねだりなんだ。
立派なお家の立派な玄関には、場違いなほどみすぼらしい自分の靴がちょこんと端っこに置かれていた。
いいんです。
なんだって。
これは単なる事実なのですから。
立派なお家も喧嘩出来る家族も素敵な恋人も、私には縁のないもの。
思い出の品だって、買い戻すお金も力も持っていない。
来るんじゃなかった。
ドスン!
片方の靴に足を突っ込んだ瞬間、二階から大きな物音が聞こえた。
何事!?
振り返ると、物音に驚いた詩織さんと孝良氏も廊下に飛び出している。
二階から学さんの声が聞こえた。
「颯斗さん! 大丈夫ですか?」
孝良氏は弾かれたように階段を駆け上がる。
不安そうに潤ませた詩織さんの瞳と、私はうっかり目を合わせてしまった。
「あ、紗和子さん……。もう帰る……んで……。あ、いや。なんでもないです」
詩織さんの美しい横顔が、痛々しくうつむく。
そんな姿を見せられたら、どうしようもないじゃないか。
「一緒に様子、見に行きますか?」
詩織さんはすがるようにパッと顔を上げた。
「お、お願いします!」
この場に彼女を残してでは、さすがの私だって帰りづらい。
手にしていた鞄をリビング入り口すぐの脇に戻すと、詩織さんと共に二階へ向った。
階段を上がると、彼女の部屋の入り口付近で佐山CMOは倒れていて、それを学さんが助け起こしていた。
「くっそ、あの野郎……」
佐山CMOは苦しそうに脇腹を触っている。
叔父の篤広氏も部屋から出てきた。
「立てますか?」
学さんに支えられ、佐山CMOはようやく立ち上がった。
「こんなもてなしのされ方をするのは、生まれて初めてですよ」
怒りに満ちあふれた彼に、孝良氏の顔色は変わった。