白薔薇園の憂鬱

第2話

「……。ね、ねぇ。紗和ちゃんはさ、今日のこ……」

 佐山CMOが、不意に深く大きな息を吐き出した。

「いや、驚いたよ。ということは、このウェイトに色をつけたのは、まだ幼かった安藤卓己氏自身ということになる!」

 佐山CMOは、高らかに笑った。

「あはははは。いやー、どうしてこうも、実際に血の繋がった孫の紗和子さんにはその才能が伝わらなかったのに、卓己くんには伝わったんでしょうね。奇跡というか、残念っていうか」

 卓己の顔が、サッと青ざめる。
その言葉は、いつも私が卓己の前で言われ、そのたびに喧嘩し私たちを傷つけてきた言葉。

「実にもったいない。君にもその才能があれば、よかったのにね」

 佐山CMOはにやりと笑って、私を見下ろした。

「うるさい」

 そんな彼の脇腹に、私は軽いグーパンチを入れる。

「あはは、冗談だよ、冗談」
「分かってますよ」

 軽く受け流した私に、卓己はぐっと言葉を飲み込んだ。
卓己はいま、もの凄く驚いているだろう。
こんなことを誰かに言われるたび、私は大声で泣きわめいて怒り出し、卓己にも周囲にも当たり散らして驚かせてきた。
そうして部屋に引きこもり、長い間そこから出てくることを拒んでいた。

 佐山CMOのその言葉は、私が一番嫌がる禁句であり、イヤミや嫌がらせの常套句でもあった。
そんな言葉に今、穏やかに接している。

「だけど、そのウェイトが君の手に戻ってきて、よかったね」
「そうですね」

 佐山CMOが微笑んだから、私はそれと同じようににっこりと笑みを返す。
多分、この人ではない別の人に同じことを言われたら、やっぱり多少は傷ついたんだろう。
だけどなぜか、この人には言われても嫌な気がしない。
大人になったもんだな、私もきっと。

「あ、……。あの……、ね、紗和ちゃん。あ、あの……」

 卓己はもごもごと何かを言いかけ、ふいに息を止め吐き出そうとした言葉を飲み込んだかと思うと、大きくうなだれてしまった。
卓己が話すことを諦めた時、ずっと彼の横に立っていた女性が、やれやれと口を開く。

「初めまして。私、卓己さんの事務所でお手伝いをさせてもらっている、古川千鶴です」

 ぴったりとしたジャケットスーツに、長く直線的な黒髪。
背は低いけど、真っ赤な口紅がとてもよく目立つ。
スタイルは抜群で、モデルさんみたいだ。

「あなたが『紗和ちゃん』ね? いつも卓己がぶつぶつ言ってる人!」

 そう言って彼女は、あははと笑った。
ぶつぶつ言ってるって、どんなこと?

「卓己は自分の事務所でも、私の悪口言ってるんですか?」
「あ、紗和ちゃ……。ち、ちがっ、あ、あのね……」
「卓己がこんなに落ち込むなんて、よほどのことだと思ったから。私がついてきてあげたの。卓己がいつも大量に描いてるスケッチブックの中でしか見たことなかったから、本物に会えるのを楽しみにしてた」

 彼女は黒く美しい切れ長の目で、ニヤリと微笑んだ。
卓己は一生懸命に言い分けを始めたけど、正直何を言ってるのかよく分からない。
おどおどと口ごもる彼が何を言おうとしているのか、本当は分かる気もするけど、分かってあげない。
私はちゃんと佐山CMOの言葉を冗談と聞き流せるようになったんだから、卓己だって、ちゃんとそうしてほしい。

 ふと気づけば、私たちを取り囲む人垣が、すっかり密になっていた。
その輪の中から、一人の男性が1歩前に進み出ると、卓己に声をかける。

「あ、あの。有名アーティストの、安藤卓己さんですよね。絶対そうですよね」
「え? あ、いや……」
「僕、安藤さんの大ファンなんです! こんなところでお会いできるなんて、すっごくうれしいです!」

 とたんに卓己の周囲に、どっと人が押し寄せる。
普段こんな光景を目にすることはほとんどないのだけれど、さすがはアートフェス会場だ。
卓己のことを知っている人たちが多い。
一緒についてきた彼女も有名な人だったらしく、突然押し寄せた人の波に、私たちは離ればなれになってしまった。

「紗和子さん。こっち!」

 その押し寄せる人波から引き上げてくれたのは、佐山CMOだった。
彼は私の手をとると、強く引き寄せる。
つかまれた手は、痛いくらいに頼もしいものだった。

「ふう。彼の人気は、本物だからね」

 繋いだままの手に少し恥ずかしくなって、彼の横顔から目をそらす。
少し離れたところから見る卓己は、本当に大勢の人たちから取り囲まれていた。

 初めて見る。こんな光景。
彼は色んな人と握手したり、一緒に写真を撮ったり撮られたりしている。
すぐに会場警備員が現れて、卓己たちはどこかへ連れて行かれてしまった。
大混乱の渦の外で、私と佐山CMOはその一部始終を眺めている。

「まぁ、これだけの規模のフェスに、彼のような次世代を担う大物アーティストが現れたとなれば、しばらくは帰してもらえないよ」

 そうなんだ。
卓己ってやっぱり、凄い人なんだ。
ぎゅうぎゅうの人混みに揉まれ、卓己の背中が通路の奥へ消えていく。
いつの間にか彼も、私なんかには手の届かない人になってしまっていた。

「さぁ。僕たちはそろそろ帰ろうか」
「はい。そうですね」

 いまだ興奮の冷めやらぬエントランスホールから抜けだし、私たちは帰宅の途についた。
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