魔界の王子は愛をご所望です

名前を呼んで

「……貴方、愛情表現を知ってるんですね」
「あ?」

ようやく用意されたソファに座る。少し頭が冴えてきた。
泣きっ面こそ見せなかったものの、みっともなくしゃくりあげたし鼻もかんだことで多少開き直ることができたのだ。怪我の功名とはこのことだろう。
ここで泣いていても現状は変わらない。それなら求められる役割を果たそうという気になれた。

「泣き止んでほしい、とか笑ってほしい、とか……誰かを思いやる心が愛情ですよ。貴方はそれを身につけている。お父様のことを心配しているでしょう。それだって家族愛です」

食卓での会話で拒絶されたことから父親──魔王について触れるべきか迷ったが、ここは敢えて口にした。自分の心に気づくには自らの行いを例に挙げるのが一番だからだ。
案の定、眉を寄せた彼だったが今度は頭ごなしに会話を断ち切らなかった。彼も態度が軟化したように見える。

「……だが、今の俺には充分な魔力はないぞ。元から俺にその素質があれば、とっくに魔界は聖なるモノを一掃していたはずだ」
「それはまあ……そうですが」
「足りない、のかもな」

ローテーブルを挟んだ向かいで頬杖をついてみせたシンは何か思いついたようだ。

「数か深さか種類か……尺度は知らねえが、俺の求める基準に至るには何かが足りない可能性もある。おい、実験だ」
「実験?」

穏やかならぬ言葉に眉をひそめる。指で手招きされたが、そんなことを言い出すひとの傍にほいほい寄る訳にはいかないだろう。

「別に骨を砕いたり臓器を握り潰す訳じゃない。愛情に関して俺の持つ知識を試してみるだけだ。お前には実験台兼審判役を任せる」
「ひ、被験者が審判役じゃ公平な判断なんてできませんけど……!」

喩えが物騒過ぎる。しかしシンは考えを改める気は無いようだ。舌打ちされながら手招きされて、逃げ場は無いと恐る恐る傍に寄る。

「座れ」

意外と普通だった。隣に座ると「違ぇ」と一蹴されて腕を取られる。

「うわっ」
「こっちだ」

シンを跨ぐ形で強制的に座らされて、ロングスカートが左右に引っ張られて厭な音をたてた。

「やっ……だ!」
「本で読んだ恋人たちはこんな感じだったか。おい暴れるな。スカートが邪魔? たくしあげればいいだろ。こんな長いの履いてるからだ」

邪魔なものをどかすノリで裾を持たれて反射的に悲鳴が上がる。

「へ、変態! 愛よりデリカシーと常識を学んで!」
「うるせえ。お前の常識なんぞ知るか」

裾を持つ手を全力で押さえ込んで顔を真っ赤にしていると、ようやくこのやりとりが時間の無駄と気づいたのか、シンは裾から手を離した。慌てて膝から下りようと距離を取ろうとしたけれど、今度は横抱きになる形で膝に座らされた。
結局膝抱っこだ。

「これならいいだろ」
「……近い、です」

口答えすると、置き場に困って胸元で握りしめていた両手をひとまとめに握られる。顔を寄せられて吐息が耳に触れた。

「たいてい物語ではこうやって愛を囁いてるよな」
「貴方、普段どんな物語読んでるの……」

ほぼ初対面の男性に抱き上げられて手を握られる、なんて居心地が悪すぎてどこを見たらいいかわからない。握られた手に汗をかきたくない気持ちと、いっそ汗みずくになって解放されたいと揺れ動く気持ちが顔に出ている気がして非常に気まずい。
しかし、シンは私の反応には何ひとつ触れずに何かを思い出すように低く唸っている。

「……梓」
「え?」
「名前を呼ぶのも、愛情表現だろ」
「ああ……確かに」
「俺の名前を呼んでみろ」
「し、シン」

頼まれたから呼んだのに、シンは何ともいえない顔でつまらなさそうに「もう一度」と命じてくる。

「シン」
「もっと心に訴えかけろ」
「シン!」
「耳の近くで怒鳴るな!」
「そっちこそ怒鳴らないで!」

演技指導だか喧嘩だかわからないやりとりにお互い不機嫌になってきた頃、シンは一度目を閉じて深呼吸した。ゆっくり目を開けて私の顔を見つめてくる。頬に感じる視線がむず痒い。

「ど、うしたの……?」
「………………あずさ」

一音一音、噛み締めるように呼ばれた名前。
ああ、このひとは本気で愛情を魔力に変えるつもりなのか。こんな初対面の、何の力も持たない私に縋って、起死回生の一手を私に賭けている。それはとてつもないプレッシャーだし、彼の期待に応えられる自信はないのだけれど。

「…………シン」

私も静かに呼びかけた。
やっと、お互いの呼吸が合った気がする。

「ゴシュジン、シン、ナカヨシ!」
「ヒューヒュー! ラブラブ!」

空気を読んでいたのかいなかったのか、絶妙なタイミングでクロとヤミが囃し立ててふたりとも我に返る。

「ばっ……か言え! 誰が仲良しだ!」

激昂したシンが勢いよく立ち上がるものだからあっさり膝から振り落とされて床に落ちた。

「いっ! たあ!」

私はもちろん、私の全体重を勢いよく受け止めたシンの足も悲鳴を上げた。

「いってえ! 重いんだよ!」
「貴方が落とすからでしょう!?」

私たちが言い合っているのも面白がりながらクロは部屋を出て行った。ヤミはちらちらこちらを振り返りながらやはり後を追う。きっとお腹が空いたのだ。
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