この想い、21時になったら伝える
16. 想い溢れて
眩しい夕日に照らされながら、五十嵐は無音で車を走らせていた。あれから五十嵐は、昼食から戻ってきた一茂と院内にある喫茶店に入り、珈琲をご馳走になりながら梛七の生育歴や普段の様子を聞いた。親心からクリニックでの様子はどうかと一茂は心配そうに尋ねてきたが、五十嵐は貴重な存在であることを存分に伝え、一茂の心配を拭った。梛七が目を覚ましたら連絡を入れてもらうよう五十嵐は頼み、一茂に御礼を言って別れた。
家に着いた五十嵐は、ソファーに腰をかけて虚な目で天井を仰いでいた。何も手につかない程の虚無感に襲われたのは初めてだった。
五十嵐は、パンツのポケットからiPhoneを取り出し「仕事が終わったら連絡くれ」と橘へラインを打つ。すぐに既読がつき、橘から電話がかかってきた。
「もしもし傑?元気か?あれから連絡ねーから、どうしてんだと思ってたんだけど」
「色々すまなかった…。お前に話があって、梢子ちゃんにも伝えて欲しいんだが…。今日の朝、脇田が轢き逃げの交通事故に遭った。昼に病院に行ってきたんだが、今も意識がない状態だ…」
「は?ちょっとマヂで?え?轢き逃げ?」
橘は声を張り上げ、テンパったように聞き返す。
「あぁ…。まだ捕まってねーって。俺、見つけたらそいつ殺しに行っていい?」
「ダメだろ、馬鹿。気持ちは分かるけど…。傑、お前は大丈夫か?」
「おかしくなりそうだ…」
五十嵐の声は怒りと悲しみで震えていた。
「そうだよな…。とりあえず、梢子ちゃんに伝えとくから。あんまり気を落とすなよ」
五十嵐は「あぁ…」と力なく返事を返す。電話越しから呼ばれていた橘は「ごめん、また連絡する」と言って一方的に電話を切った。
五十嵐は無気力のまま洗面所へ向かい、そのまま服を脱いで熱いシャワーを浴びた。
◇◇◇
(「大きくなったら何になりたいですか?」)
(「はい!」)
(「じゃ〜ななちゃん」)
(「大好きな人のお嫁さんになりたいです」)
梛七は静かに目を開ける。閉じてしまいそうな瞼をゆっくり持ち上げながら、陽の光に当たる無機質な天井をぼんやりと眺める。
酸素マスクに切り替えられていた梛七は、ゆっくり首を動かし、横で本を読んでいた母・ひろ子に「ママ…」と、か弱い声で呼んだ。梛七の呼びかけに気づいたひろ子は、読んでいた本をパタンと閉じて、横たわる梛七に抱きついた。
「梛七、大丈夫?今、先生を呼ぶからね」
ひろ子はそう言って、梛七の頭上にあったナースコールを押した。梛七は、3日間意識のないまま眠っていたことをひろ子から聞き、フリーズした脳内をゆっくり稼働させた。
「あの日ね、1番に五十嵐先生が来てくれたのよ。初めてお目にかかったけど、とってもカッコいい人だったわ〜。その日はパパと珈琲を飲んで帰られたけどね」
「来て…くれたんだ…先生…」
(そうだ…あの日、先生に謝ろうと思っていたんだっけ…)
梛七は点滴筒に落ちていく一滴の滴を眺めながら、あの日の朝のことを思い出していた。仕切られたカーテンの奥から数名の足音がパタパタと聞こえてくる。ベテラン看護師二名に付き添われた主治医がニコッと顔を覗かせる。
「バイタルは安定していますね。今は、麻酔が効いていますが段々と骨の痛みが出てくると思います。その時は痛み止めを出しますので、遠慮なく言ってください。明日から、一般病棟へ移っていただきます。食事も準備しますので、今日はこのままゆっくり休みましょう」
「はい…」
「では、お大事に」
主治医は聴診器を首にかけながら、集中治療室を出ていく。梛七はまた眠気に襲われ「少し寝る…」と言ってまた瞼を閉じた。
病室を出て行ったひろ子は、一茂とクリニックに電話をかけ、梛七が無事に目を覚ましたことを伝えていた。
◇◇◇
一般病棟へ移ってから丸一週間が経過した。大部屋が空いておらず、高い入院費のかかる個室へ移動させられた梛七は、だらだらと続く微熱と、負傷した骨の痛みと格闘していた。
「いったぁ〜い…、もう無理ぃー」
「痛いよね〜。こればっかりはね、日にち薬だから〜。頑張ろ〜ななちゃん」
仲良くなったベテラン看護師の平(たいら)さんは、満面の笑みを浮かべながら、梛七に繋がれた点滴の交換をする。
「でも、骨折だけで済んで良かったんだよ。頭を打ったり、内臓を損傷したりしてもおかしくなかったんだから〜」
「うぅ…確かに。でも痛すぎますぅ」
「さぁ今日は、誰がお見舞いに来られるのかな?」
看護師の平に聞かれたが、事故でiPhoneを失くしてしまった梛七は、いつどこの誰が来るかまでは把握していなかった。梛七のところには、連日いろんな人がお見舞いに来てくれている。クリニックのスタッフたち、梢子たち、橘先生までも顔を見せてくれた。五十嵐だけはあの日の以来、一度も来てくれていない。
「はい、脇田さん昼食です。また後で取りに来ま〜す」
別の看護師が昼食の乗ったトレーをテーブルの上に置いていく。
梛七は、左脇腹の痛みと闘いながら、ベッドごと上体を起こし、食事に手をつけた。
(先生、今日来るかな。いや、来ないだろうな…)
五十嵐への淡い期待も、咀嚼したほうれん草と一緒に胃の中へ落としていく。その後に口に含んだ白米も、何だか味気ないものだった。
◇◇◇
病室の外からは、様々な音が聞こえてくる。外のグラウンドから聞こえてきた笛の音で、梛七は昼寝から目を覚ました。深い眠りからまだしっかりと目覚めていない状態で、何となく聞こえた小さなノック音に応える。
「はい…」
ぼんやりと視線を扉の方に向け、誰かが入ってくるのを待った。
引き戸の扉がゆっくりとスライドし、見覚えのあるシルエットが梛七の目に飛び込んでくる。
黒いスクラブの上に上着を羽織った五十嵐が、優しい眼差しを向けて入ってきた。梛七は突然の出来事に何も言い出せず、思わず固まってしまう。
近づいてきた五十嵐の顔を見上げた刹那、覆い被さるようにそっと抱きしめられた。
「せ…先生…」
「じっとしてろ…。遅くなって悪かった…」
消えそうな五十嵐の声が、耳の後ろから聞こえてくる。五十嵐の香りが柔らかく鼻腔を通過する。梛七は、目の縁に涙を溜めながら、解放されていた右手をゆっくり五十嵐の背中に回した。
「夢じゃないですよね…」
「夢じゃねーよ…」
「ずっと会いたかったです…」
「俺もだ…」
「泣かないでください…」
「お前がな…」
ゆっくりと五十嵐は梛七から離れる。一瞬、五十嵐の目に光るものが見えた気がした。
「じゃあな。また、時間見つけて来る…」
梛七は、扉の方に向かおうとする五十嵐の服を思わず掴んだ。
「もう…行っちゃうんですか…」
「休憩中だからな、もう戻んねーと…」
五十嵐は梛七の頭を撫でながら「ゆっくり休めよ」と言って、静かに病室を出ていった。
梛七はしばらく起き上がることができず、ゆっくりと白い掛け布団を頭までかぶり、五十嵐の残り香と触れた感覚を、もう一度抱きしめた。
◇◇◇
それから数日後、ひろ子から新しいiPhoneを受け取った梛七は、バックアップさせておいたアプリやメールなどを同期させていた。アップデートの終わったラインを開くと、鈴山から疑問形の短文メッセージが十三通届く。
(うわっ。こんなにも。しかも疑問形…)
梛七は顔を引き攣りながら、事故に遭って返信できなかったことをラインした。「お見舞いに行きたい」とすぐに返信が来たが、梛七は五十嵐以外の異性とは会いたくないと思い、親が一緒にいるからと言ってキッパリ断った。
(私は先生に会いたいの…)
梛七はあれから、触れ合った日のことが忘れられず、五十嵐へ更に想いを募らせていた。今日も、もしかしたら…、そんな期待が梛七の胸を膨らませる。
「脇田さん、リハ室行きましょう」
作業療法士の先生に呼ばれた梛七は、ニヤけた顔を隠しておぼつかない車椅子でリハ室へ向かった。
◇◇◇
クリニックの診療が終わりに近づいていた夕方、スーツに身を包んだ鈴山が五十嵐を尋ねてやってくる。
「五十嵐先生をお願いしたいんですが…」
怪訝そうな顔をして、受付にいた藤原に声をかけた。
藤原が院長室にいた五十嵐を呼びに行き、五十嵐は待合室にいた鈴山と顔を合わせる。
「どうされました?」
「梛七のことで…」
他の人に聞かれて欲しくなさそうな鈴山を察して、五十嵐は奥にある院長室へ翔太を案内した。鈴山と向かい合ってソファーに腰を掛け、五十嵐は真顔で口を開く。
「話とは?」
「あ、梛七から事故のことを聞いて、今も入院していると聞いたんすけど、お見舞いを断られちゃって…。どうしても会いたいんで、五十嵐先生、場所を教えてもらえないっすか?」
いきなり来て強引だなこいつは…、と呆れながら五十嵐はゆっくり息を吐く。
「あいつが来てほしくないと言ってる以上は行かない方がいいんじゃないか…。それに、スタッフの個人情報は俺からも教えられない」
「そうっすか…。本当は教えたくないみたいな感じっすか?」
「いや、そういうんじゃなくて…」
「じゃ、もう一つ。梛七を脅迫するような紙が、梛七んちのポストに入っていたことは知ってたっすか?」
五十嵐は顔を顰める。「どういうことだ?」と聞き返し、鈴山は続ける。
「ポストにこんなのが入ってたらしいっす。五十嵐先生のファンの方からじゃないかって。こんなこと言うのも何なんすけど、今回の事故。あなたの周りにいる誰かがやったことなんじゃないんすか?」
鈴山は自分のスマホを五十嵐に見せながら、語尾を強めた。五十嵐は、すぐに天宮の仕業だと確信した。
「もしそれが本当だったら、梛七に怪我を負わせたのはあなたのせいっすよ。
僕は、梛七を本気で守りたいと思ってるんで、梛七に危害を及ぶようなことはしないでもらいたいっす」
「そうか…。言いたいことはそれだけか?」
五十嵐は的を射るような目で鈴山を見る。五十嵐かは溢れ出る威圧感に、鈴山の顔が一瞬怯む。
「そ…それだけっす。じゃ、僕はこれで。失礼します」
五十嵐は鈴山を見送らず、院長室のソファーに座ったまま拳を握っていた。天宮に対する憤りと、鈴山が吐き捨てていった言葉の数々に腹の虫が収まらなかった。
五十嵐は、そのままの勢いで天宮に電話をかける。
「傑ぅ〜なにぃ?」
「今日の18時にクリニックへ来い」
「何、その怖い声〜。怒ってんの?」
「お前、分かって言ってんだろーな?」
天宮は黙り込んだ。「分かった後で行く」と静かに言う天宮の声を聞いて、五十嵐は何も言わず電話を切る。五十嵐は気持ちを切り替え、何事もなかったかのようにフロアーへ出ていった。
◇◇◇
スタッフたちを少し早く帰らせ、五十嵐は一人、クリニックの中で天宮を待っていた。時計の針が18時ピッタリに動きを止める。五十嵐はiPhoneの録音機能をセットし、スクラブの胸ポケットへ仕舞う。
(必ず、問いただしてやる…)
五十嵐の目は恐ろしく据わっていた。
しばらくすると、クリニックの正面玄関の自動ドアがウィーンと開いた。派手な香水の香りを漂わせて天宮が入ってくる。
待合室のソファーに天宮を座らせ、五十嵐は向き合うように腰を下ろした。
「脇田さん、元気ぃ?」
「どうして気になる?」
「別に…聞いただけ」
「脇田にしたことは全てお前の仕業か?」
五十嵐は天宮を下から睨みつける。天宮も負けじと五十嵐を睨み返す。
「前にもしたよな?脅迫まがいなこと。変な紙を俺に送りつけて、警察から厳重注意を受けたこと、忘れたのか?」
「……」
「脇田に怪我を負わせたのも、お前が誰かに頼んでやったことだろ?違うか?」
「……」
天宮の目が泳ぎ始め、五十嵐は確信をついた。このまま問いただそうと、五十嵐は語気を強める。
「黙ってねーで、何とか言えよ!」
五十嵐の怒声が待合室に響き渡り、天宮の鼻で笑う音と口角が上がったのが分かった。
天宮は、五十嵐を軽蔑するかのように、気持ち悪く笑い始める。
「あははははっ。脇田さんのことになると本当に必死になるんだね〜傑。ははっ。じゃあ、今回も相当必死になったんじゃな〜い?一層のこと殺してくれればよかったのに、未遂なんだもん。傑の悲しい顔をもっと見たかったのに〜」
「…てめぇ、本気で言ってんのか?」
五十嵐の怒りは頂点に達していた。殴りかかるような勢いで、天宮の胸ぐらを掴んだ。天宮は怯え始め、「ちょ…ちょっと…じょ…冗談よ…」と震えた声で話し始める。五十嵐は掴んでいた手を勢いよく離し、天宮は床へ突っ伏した。
「傑から大事にされている脇田さんが妬ましかったの!だから少し傷つけたかっただけ!こんなにも傑のことが好きなのに、あんたは…。あんたは、私のこと一ミリも大事にしてくれなかったじゃない!」
天宮は激しく怒りながら、悔し涙を流していた。五十嵐も声音を強めて、睨んでいた天宮に言い返す。
「だからって、こんなことしていいと思ってんのか!てめぇは!
俺はな、てめぇのそういう一方的で、自分本位なところが嫌いなんだよ!
それにな、傷ついたのは脇田だけじゃねーんだ。ここにいるスタッフたちも、ここに通う患者たちも、あいつに関わる全ての人たちが、てめぇーのその薄汚ねぇ貪欲に傷ついて、泣いてんだよ!」
鼻を啜る音が待合室に響く。遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。
「もうすぐ、お前を連れて行く連中が来る。もう終わりだ。お前も、お前の製薬会社も。自分の犯した罪をせいぜい反省すんだな」
クリニックに到着した警察官に、証拠になった音声と、天宮の身柄を引き渡した。五十嵐は翔太が帰っていった直後に、一茂から「轢き逃げした犯人が捕まりました」という一通のメッセージを貰っていた。そこには、ある女性から頼まれて犯行に及んだ、という供述の内容も記されていた。五十嵐は警察に連絡し、「今日、その女をここに呼びつけるので」と言って協力をお願いしていた。
「はぁ〜。やっとこれで一つは片付いた…残りは…」
五十嵐は溜め息を漏らしながら、待合室のソファーに座り込み、大きな独り言をぼやいた。五十嵐は梛七に、今回のことは全て天宮がやったことだった、とラインを入れた。申し訳なかった…、ともう一文を追加してiPhoneの画面を閉じる。
鈴山のことが気になるが、今日はもう何も考えたくなかった。五十嵐は、感情が沈まるまで待合室のソファーで横になりながら目を瞑った。