神様に人の倫理は通じない~溺愛からの裏切り、そして失墜の先へ~
5話 遅すぎた改心
「メリナ、ちょっと待っていてね」
ターラはそう言うと、メリナの部屋を出て、廊下に控えていたメイドへ、紙とペンを持ってきてくれるように頼む。
命の灯火が消えようとしているメリナに、今のターラが残してやれるものは、これしかない。
メイドが持ってきた紙とペンを受け取り、ターラはベッドの脇へ戻る。
「祈るのは私だけじゃない。メリナも一緒よ。二人で祈った方が、神様へ声が届くかもしれないでしょう?」
きちんとした机もなく、真っすぐな線を引くのも難しいが、ターラは紙にペンを滑らせる。
パッチワークの図案を作成するために、何度も祈りの間へステンドグラスを見に行った。
だから空でも、ターラはしっかりと神様の姿を思い浮かべられる。
ターラの大切なものは心の中に仕舞ってあるが、こうして可視化させてしまえば、メリナに渡すことが出来る。
「神様は、生まれてすぐは光の球体だったの。それが人々の祈りの力によって、人型になったわ」
ターラは神様の誕生のシーンを、説明しながら描いていく。
メリナがきつそうに眼を閉じているから、せめて耳から伝わればと思った。
「私たちと同じように、神様にも子ども時代があって、人々の信仰が深まるたびに姿が成長していったそうよ。成長した神様の黒髪は腰まであって豊かなの。星空のような蒼い瞳は、とても美しかったわ」
丸い光環から、赤子になり、幼子になり、少年になり、青年になった神様。
どの姿も、溜め息が出るほど麗しく、ターラは実際に神様を見てしまったら、目が潰れるのではないかと思った。
「人々の祈りの力が集まると、神様は新たな能力を得るの。神格と言ってね、神様の格が上がることで、神様の出来ることが増えるそうよ」
天変地異が治まる様子、豊かな土地が拡がる様子、人々が健康に暮らす様子、代々繁栄していく様子。
どれもステンドグラスに、活き活きと描かれていた神様の偉業だ。
「神様の成長には人々の祈りの力が必要だから、神殿に仕える者は布教活動に力を入れているわ。その一環として、私は今、神様の誕生と偉業を伝える布絵をパッチワークで制作しているの。メリナも一緒に習ったのを覚えているかしら? お母さまが教えてくれたでしょう?」
図案にもなったステンドグラスの画を描き終わったターラは、それをメリナの枕元に置く。
微動だにしないメリナは、話し疲れて眠ってしまったのかもしれない。
「メリナ、おやすみなさい。いい夢を見られますように」
メリナの閉じた瞼は、乾燥してシワだらけで、老婆のようだった。
ターラから婚約者アロンを寝取り、意気揚々と家を出て行ったメリナだったが、こんな姿で帰ってくるとは。
――人生は先が見えない。
だからこそ抱く不安を、和らげる存在が人には必要なのだ。
◇◆◇
「お父さま、正直に言ってください。メリナはもう、長くないのではないですか?」
「……かれこれ2週間になるか、メリナの体が食べ物を受け付けなくなった。かろうじてスープを口に含ませているが、実際に飲み込めている量はわずかだろう」
医者が見立てた余命は、長くても半年だった。
それはあくまでも長かった場合で、短い場合もあるのだとターラは思い知った。
「メリナは死ぬことを怖がっていました。神様の話をしたら、興味を引かれたようで――私は、メリナに少しでも、信仰の温かい光を感じてもらえるよう努めます」
死を目前にしたメリナに対して、ターラに何が出来るのか。
それは心の痛みや苦しみを理解し、少しでも和らげてあげることではないだろうか。
◇◆◇
帰省している間、ターラはメリナが目覚めるたびに、側に控えるようにした。
「起きて枕元にこれがあったから、昨日の話は夢じゃなかったって分かったの」
今日のメリナは昨日と比べると、ずいぶんハッキリと喋っている。
そしてターラが描いた神様の絵を、大切そうに撫でていた。
「神様はずいぶんと美形なのね。ねえ、お姉さま、神様に色を塗ってちょうだい」
甘える姿も、昔に戻ったようだ。
だが、神様の絵をこちらに渡そうと伸ばしたメリナの腕には、もう骨と皮しかついていない。
「ビクラムが絵の具を持っているかもしれないわね」
ターラは神様の絵を受け取り、やんちゃな弟の顔を思い浮かべる。
しかし、ビクラムの名を聞いたメリナが、声のトーンを落とした。
「ビクラムは……私を恨んでいるから、絵の具を貸してくれないかもしれないわ」
「恨んでいる? どうして?」
「私が、お姉さまの婚約者だったアロンさまを奪ったでしょう。……そのせいで、お姉さまは家を出て、神殿へ仕えるようになったわ。そのときから、私はずっとビクラムに恨まれているのよ」
ターラは知らなかった。
自分が神殿に仕えたせいで、メリナとビクラムの間に、確執が生まれていたなんて。
「でも、ビクラムにはちゃんと説明したわ。私は誰かと結婚するよりも、神様の側にいるほうが幸せだからって」
「そうだとしても、10歳のビクラムにとっては、家からいなくなってしまうお姉さまの存在が恋しかったのよ。私のせいだって、詰られたわ。きっと私は今、自分勝手だったこれまでの振る舞いの、罰を受けているのね」
諦めたように呟くメリナからは、改心がうかがえた。
「メリナ、あなた……」
「ごめんなさい。今までの振る舞いを謝るわ。お母さまが亡くなって、お姉さまはビクラムに付きっきりで、お父さまは仕事ばかりするようになった。私、寂しかったのよ」
ボソボソと話すメリナの唇は乾き、ひび割れた表皮が浮いている。
ターラは吸い口をメリナの口に入れてやるが、あまり水は飲めないようだった。
「だからって、お姉さまのものを何でも欲しがるのは、良くなかった。この結末は自業自得ね」
メリナは笑ったが、頬が歪に引きつれるだけだった。
「メリナについて、もっと配慮するべきだったわ」
ターラは反省する。
母が亡くなってしばらくの記憶が曖昧だ。
ビクラムの母親代わりにならなくてはと、必死だったのだろう。
ある程度までビクラムが成長したときには、メリナはすっかり我がままになっていた。
「お母さまが亡くなった日、お姉さまは何を祈ったの?」
「お母さまが寂しくありませんようにと祈ったわ。だって私たちには家族がいるけど、お母さまは一人で旅立ったでしょう?」
「そうね、私もそうなるのよね。でも向こうには、お母さまと赤ちゃんが待ってる。そうでしょう?」
すがるようなメリナの声は、少し震えていた。
死が怖いのだ。
ターラは、神様の絵をメリナの胸の上に置くと、冷たいメリナの手を握る。
「心の中に神様がいれば、お母さまと赤ちゃんに会う前だって、一人じゃないわ。メリナ、一緒に祈りましょう」
メリナの手を包み込むように手を組む。
そしてターラはメリナのために祈った。
メリナの瞳が潤んだが、流れるほどの量の涙はもう出ない。
「お姉さま、ありがとう」
◇◆◇
ターラはその夜、ビクラムの部屋を訪ねた。
メリナとの間にある溝を、埋めておいた方がいいと思ったからだ。
このままメリナが旅立ってしまったら、ビクラムは必ず後悔するだろう。
「ターラお姉さま、会いたかった!」
飛びついてきたビクラムを、ターラは抱きしめる。
「見ない間に、また大きくなったわね。先月は手紙を出してくれて、ありがとう」
ターラを見上げるキラキラした瞳は、メリナと同じ桃色だ。
ビクラムは髪も金色で、母親に一番よく似ている。
旅立つ母が、せめてもと自分の色を遺していったのだろうか。
「少しビクラムとお話がしたいのよ。時間はあるかしら?」
大好きなターラにそう言われて、ビクラムが断るはずがない。
喜んで自室へターラを招き入れる。
「何の話をする? 学校のこと? そうだ、新しく出来た友だちがいるんだよ」
聞いてもらいたい話題がたくさんあるらしいビクラムに、申し訳ないと思いながらも、ターラは訪ねた目的を伝える。
「メリナのために、ビクラムの絵の具を貸してほしいの」
ターラはそう言うと、メリナの部屋を出て、廊下に控えていたメイドへ、紙とペンを持ってきてくれるように頼む。
命の灯火が消えようとしているメリナに、今のターラが残してやれるものは、これしかない。
メイドが持ってきた紙とペンを受け取り、ターラはベッドの脇へ戻る。
「祈るのは私だけじゃない。メリナも一緒よ。二人で祈った方が、神様へ声が届くかもしれないでしょう?」
きちんとした机もなく、真っすぐな線を引くのも難しいが、ターラは紙にペンを滑らせる。
パッチワークの図案を作成するために、何度も祈りの間へステンドグラスを見に行った。
だから空でも、ターラはしっかりと神様の姿を思い浮かべられる。
ターラの大切なものは心の中に仕舞ってあるが、こうして可視化させてしまえば、メリナに渡すことが出来る。
「神様は、生まれてすぐは光の球体だったの。それが人々の祈りの力によって、人型になったわ」
ターラは神様の誕生のシーンを、説明しながら描いていく。
メリナがきつそうに眼を閉じているから、せめて耳から伝わればと思った。
「私たちと同じように、神様にも子ども時代があって、人々の信仰が深まるたびに姿が成長していったそうよ。成長した神様の黒髪は腰まであって豊かなの。星空のような蒼い瞳は、とても美しかったわ」
丸い光環から、赤子になり、幼子になり、少年になり、青年になった神様。
どの姿も、溜め息が出るほど麗しく、ターラは実際に神様を見てしまったら、目が潰れるのではないかと思った。
「人々の祈りの力が集まると、神様は新たな能力を得るの。神格と言ってね、神様の格が上がることで、神様の出来ることが増えるそうよ」
天変地異が治まる様子、豊かな土地が拡がる様子、人々が健康に暮らす様子、代々繁栄していく様子。
どれもステンドグラスに、活き活きと描かれていた神様の偉業だ。
「神様の成長には人々の祈りの力が必要だから、神殿に仕える者は布教活動に力を入れているわ。その一環として、私は今、神様の誕生と偉業を伝える布絵をパッチワークで制作しているの。メリナも一緒に習ったのを覚えているかしら? お母さまが教えてくれたでしょう?」
図案にもなったステンドグラスの画を描き終わったターラは、それをメリナの枕元に置く。
微動だにしないメリナは、話し疲れて眠ってしまったのかもしれない。
「メリナ、おやすみなさい。いい夢を見られますように」
メリナの閉じた瞼は、乾燥してシワだらけで、老婆のようだった。
ターラから婚約者アロンを寝取り、意気揚々と家を出て行ったメリナだったが、こんな姿で帰ってくるとは。
――人生は先が見えない。
だからこそ抱く不安を、和らげる存在が人には必要なのだ。
◇◆◇
「お父さま、正直に言ってください。メリナはもう、長くないのではないですか?」
「……かれこれ2週間になるか、メリナの体が食べ物を受け付けなくなった。かろうじてスープを口に含ませているが、実際に飲み込めている量はわずかだろう」
医者が見立てた余命は、長くても半年だった。
それはあくまでも長かった場合で、短い場合もあるのだとターラは思い知った。
「メリナは死ぬことを怖がっていました。神様の話をしたら、興味を引かれたようで――私は、メリナに少しでも、信仰の温かい光を感じてもらえるよう努めます」
死を目前にしたメリナに対して、ターラに何が出来るのか。
それは心の痛みや苦しみを理解し、少しでも和らげてあげることではないだろうか。
◇◆◇
帰省している間、ターラはメリナが目覚めるたびに、側に控えるようにした。
「起きて枕元にこれがあったから、昨日の話は夢じゃなかったって分かったの」
今日のメリナは昨日と比べると、ずいぶんハッキリと喋っている。
そしてターラが描いた神様の絵を、大切そうに撫でていた。
「神様はずいぶんと美形なのね。ねえ、お姉さま、神様に色を塗ってちょうだい」
甘える姿も、昔に戻ったようだ。
だが、神様の絵をこちらに渡そうと伸ばしたメリナの腕には、もう骨と皮しかついていない。
「ビクラムが絵の具を持っているかもしれないわね」
ターラは神様の絵を受け取り、やんちゃな弟の顔を思い浮かべる。
しかし、ビクラムの名を聞いたメリナが、声のトーンを落とした。
「ビクラムは……私を恨んでいるから、絵の具を貸してくれないかもしれないわ」
「恨んでいる? どうして?」
「私が、お姉さまの婚約者だったアロンさまを奪ったでしょう。……そのせいで、お姉さまは家を出て、神殿へ仕えるようになったわ。そのときから、私はずっとビクラムに恨まれているのよ」
ターラは知らなかった。
自分が神殿に仕えたせいで、メリナとビクラムの間に、確執が生まれていたなんて。
「でも、ビクラムにはちゃんと説明したわ。私は誰かと結婚するよりも、神様の側にいるほうが幸せだからって」
「そうだとしても、10歳のビクラムにとっては、家からいなくなってしまうお姉さまの存在が恋しかったのよ。私のせいだって、詰られたわ。きっと私は今、自分勝手だったこれまでの振る舞いの、罰を受けているのね」
諦めたように呟くメリナからは、改心がうかがえた。
「メリナ、あなた……」
「ごめんなさい。今までの振る舞いを謝るわ。お母さまが亡くなって、お姉さまはビクラムに付きっきりで、お父さまは仕事ばかりするようになった。私、寂しかったのよ」
ボソボソと話すメリナの唇は乾き、ひび割れた表皮が浮いている。
ターラは吸い口をメリナの口に入れてやるが、あまり水は飲めないようだった。
「だからって、お姉さまのものを何でも欲しがるのは、良くなかった。この結末は自業自得ね」
メリナは笑ったが、頬が歪に引きつれるだけだった。
「メリナについて、もっと配慮するべきだったわ」
ターラは反省する。
母が亡くなってしばらくの記憶が曖昧だ。
ビクラムの母親代わりにならなくてはと、必死だったのだろう。
ある程度までビクラムが成長したときには、メリナはすっかり我がままになっていた。
「お母さまが亡くなった日、お姉さまは何を祈ったの?」
「お母さまが寂しくありませんようにと祈ったわ。だって私たちには家族がいるけど、お母さまは一人で旅立ったでしょう?」
「そうね、私もそうなるのよね。でも向こうには、お母さまと赤ちゃんが待ってる。そうでしょう?」
すがるようなメリナの声は、少し震えていた。
死が怖いのだ。
ターラは、神様の絵をメリナの胸の上に置くと、冷たいメリナの手を握る。
「心の中に神様がいれば、お母さまと赤ちゃんに会う前だって、一人じゃないわ。メリナ、一緒に祈りましょう」
メリナの手を包み込むように手を組む。
そしてターラはメリナのために祈った。
メリナの瞳が潤んだが、流れるほどの量の涙はもう出ない。
「お姉さま、ありがとう」
◇◆◇
ターラはその夜、ビクラムの部屋を訪ねた。
メリナとの間にある溝を、埋めておいた方がいいと思ったからだ。
このままメリナが旅立ってしまったら、ビクラムは必ず後悔するだろう。
「ターラお姉さま、会いたかった!」
飛びついてきたビクラムを、ターラは抱きしめる。
「見ない間に、また大きくなったわね。先月は手紙を出してくれて、ありがとう」
ターラを見上げるキラキラした瞳は、メリナと同じ桃色だ。
ビクラムは髪も金色で、母親に一番よく似ている。
旅立つ母が、せめてもと自分の色を遺していったのだろうか。
「少しビクラムとお話がしたいのよ。時間はあるかしら?」
大好きなターラにそう言われて、ビクラムが断るはずがない。
喜んで自室へターラを招き入れる。
「何の話をする? 学校のこと? そうだ、新しく出来た友だちがいるんだよ」
聞いてもらいたい話題がたくさんあるらしいビクラムに、申し訳ないと思いながらも、ターラは訪ねた目的を伝える。
「メリナのために、ビクラムの絵の具を貸してほしいの」