一つの夜が紡ぐ運命の恋物語を、あなたと
 自分を守るように抱きしめていた腕から、徐々に力が抜けていく。その体はスローモーションのように崩れ落ちていった。そして何が起こったのか理解しきれていない自分の前に、樹の体で見えなかったその人の姿が現れた。
 真っ白なコートに長い黒髪。人形のような美しいその顔は、小さく唇を動かした。

「あなたが……悪いの。大智様を騙して、あの人から奪うなんて、許せない……」

 まるで何かの台詞を、ただ読み上げているだけのような抑揚のない声。何の感情も入っていない能面のような表情。そんな彼女の着るコートには、赤いバラのような柄が不規則に浮かんでいた。

「たっ……ちゃん……?」

 そのバラの花がなんなのか、ようやく理解する。両膝を道路につけ項垂れているその背中に、赤い大輪のバラの花が咲いているように見えた。そしてその真ん中には、銀色に鈍く光るナイフが突き刺さっていた。

「たっちゃん‼︎」

 悲鳴のように声を上げ樹の前にしゃがむ。その顔は青ざめ苦悶の表情を浮かべていた。

「たっちゃん! なんで……」

 涙が浮かび、手が震える。その肩を正面から支えていると、樹の手が自分の手に重なった。

「だい……じょうぶ、だ……。心配するな」

 弱々しく消え入りそうな声でそう言う樹に首を振る。

「やだ! たっちゃん!」

 両親を亡くしたあの日を思い出し取り乱す。カダガタと体は震え、涙が溢れて止まりそうもない。そんな自分の肩に、ふわりと温かなぬくもりが触れた。

「由依。今救急車と警察を呼んだから。佐保さん、もう少し辛抱してください」

 大智の落ち着き払った声に、冷静さを取り戻す。樹の体を支えたまま上を向くと、彼は見たこともないくらい冷たい視線を彼女に向けていた。
 けれど彼女は、嬉しそうに笑っていた。

「大智様。あなたにこんな女は必要ありません。他の男との子どもがいるのに、あの人から横取りしたんですもの。これは天罰なのです」

 狂っている。そう思った。
 よく見れば彼女の両手は血で赤く染まっている。なのにそれを気にする様子もなく微笑んでいた。

「勝手なことを言わないでもらいたい。君は犯罪を犯した。もう君の父に揉み消させたりしない。罪は必ず償ってもらう」

 唸るような低い声に、大智の怒りの度合いが見てとれる。けれどその言葉すら届かないのか、彼女は場にそぐわぬ笑みを浮かべて彼を見つめていた。
< 223 / 253 >

この作品をシェア

pagetop