一つの夜が紡ぐ運命の恋物語を、あなたと
 遠くからサイレンが聞こえてくるまで、何時間も経っていたような気がした。何事かと足を止める人や家の中から様子を伺いに出てくる人。人の騒めきが耳鳴りみたいに頭に響いた。

「樹⁈」

 その叫び声に向かって緩やかに顔を上げる。いつまで経っても家に戻らないのを不審に思ったのか、眞央が出てきていた。樹の顔は一層青ざめていて、意識も朦朧としているようだ。眞央の呼びかけに反応することはなかった。

「そんな……」

 眞央は呆然とした表情で樹の背中を、そこに刺さるナイフを見つめていた。

 ようやく救急車が到着し、ストレッチャーとともに救急隊員が駆け寄ってくる。支えていた自分から、隊員たちは樹の体を引き剥がすように抱え上げた。ストレッチャーに横たわる樹は、そのまま救急車の中に吸い込まれていく。それに悲痛な表情の眞央が付き添っていた。
 それと入れ替わるように警察官が数人、早足でこちらに向かって来る。大智は警察官に、自分が通報したことと状況を簡単に説明していた。
 彼女はそれを他人事のように眺めていた。そして警察官に促されると、狼狽えた様子もなく従い歩き出した。

「大智様。私の弁護、お願いしますね」

 この期に及んで出てくるような台詞ではない。けれどさも当たり前のように、笑みを浮かべ彼女は言った。

「うちの事務所の弁護士は一切受けない。そうお父上にお伝えください」

 丁寧な口調だが、ばっさりと切り捨てるように大智は言う。彼女はそこでワナワナと唇を震わせると、涙をこぼし始めた。

「ひどいわ。私、あなたのために……」

 その続きが耳に届く前に、彼女は連れて行かれるとパトカーに乗せられていた。

「由依。少しだけ待っていて」

 大智は座り込んだままの自分に言うと、救急車に向かい走っていく。扉は閉められているものの、赤いランプを付けたまま、まだその場に停まっていた。彼は隊員と会話をしているが、その内容までは聞こえてこなかった。
 そのうち救急車はサイレンが鳴らしながら、ゆっくり走り出す。それを見送る大智のそばに、今度は警察官が近づいていた。
 その光景を、自分はただぼんやりと眺めるしかなかった。立ち上がる気力など湧かず、冷たい道路に座り込んだまま、凍りついたように動けずにいた。
 いつのまにかパトカーの姿はなく、人だかりも消えていた。そこには寒々とした灰色の空が広がっているだけだった。
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