新そよ風に乗って 〜慕情 vol.1〜
マンションを出ても高橋さんは追いかけては来なかったが、それは最初から分かっていたこと。
去る者は追わず……の人だから。
でも、ほんの微かな可能性と期待に賭けていたから、そんな微かな期待をしてしまったことに落胆と惨めな思いが口の中を苦くした。
もう、一刻も早くマンションから遠ざかりたい。 高橋さんとミサさんが向き合っている場所になんて、居たくない。
殆ど残っていなかった気力を振り絞って、小走りに車路を走っていると呼び止められた。
「陽子ちゃん?」
ハッ!
その声の主を知っているだけに、振り返ることが出来ずに前を向いたまま立ち止まった。
「陽子ちゃん。 どうしたのぉ? 貴博、留守?」
明良さん……。
声に背を向けたまま、首を横に振った。
きっと、明良さんも知っていたのかな。
高橋さんは、ミサさんとまだ……。
「ごめんなさい。 急いでいるので……失礼します」
「どうしたの!」
一歩前に足を踏み出した途端、明良さんが前に立ちはだかった。
俯いているけど、きっと泣いていることに気づいたのだろう。
明良さんも、少しの間沈黙していた。
「昔も、こんなことがあったよね」
エッ……。
ゆっくりと顔をあげて、明良さんを見た。
「昔、やっぱりこんな感じで陽子ちゃんが泣いていて、此処で会ったよね?」
ああ……あの時……。
あの時も、酔っていた高橋さんが私とミサさんを間違えてキスをして……嫌でも、またミサさんが出て来てしまう。
「明良さんも……」
「えっ? 何?」
「明良さんも、ご存じだったんですか?」
辛さが余計に増して押し寄せてきて、明良さんから視線を逸らせた。
「何? 何のこと?」
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