新そよ風に乗って 〜慕情 vol.1〜
「ですが……誰がどんな時計をしていても、仕事に支障をきたすとは私には思えません」
「な、何なの? この子」
土屋さんが、紺野さんと顔を見合わせた。
今だ!
今しかない。
勇気を振り絞って、行動に移す。
「お先に、失礼します」
このタイミングを逃したら、お局様達から逃れる機を逸してしまう。
食事も途中だったが、今はそれどころじゃない。
勢いよく椅子からトレーを持って、立ち上がった。
膝がガクガクして思うように早く歩けないし、上手く前に進めない。
怖くて後ろを振り返れなかったが、不思議と3人が追い掛けて来る気配はなかった。
食器を返そうと返却口に向かっていたが、端から見たら何とも滑稽なロボットのような歩き方になってしまっているので、すれ違う人に怪訝そうな顔で見られている。
でも今は、少しでも早くこの場を立ち去りたいから、そんなことに構っている暇はない。
ふと前方に黒っぽい人影と、視線を感じた。
10メートルぐらい先の壁際に、今一番会いたかった人のシルエット。
壁に左肩で寄り掛かり、書類を持って腕を組みながらこちらを見ている高橋さんの姿が、そこにあった。
あぁ……。
今、直ぐにでも、その胸に飛び込みたい衝動にかられる。
でも、それは叶わない願い。
此処は、会社の中だということも自覚していた。
すると、こちらを見ていた高橋さんが微笑みながら右手の親指を立て、壁から少し反動をつけて体勢を戻すと、そのままクルッと私に背を向けてジャケットの裾を翻しながら、足早に立ち去って行ってしまった。
エッ……。
高橋さん。
何で?
どうして、もう行ってしまったの?
ひと言でも、話したかった
でも……。
ヒャッ!
後ろから、不意に肩を叩かれた。
先ほどのことがあったので、お局様達かと思って心臓が飛び出そうなほど震え上がってしまった。
「何、かたまってんのよ」
この声は……。
聞き覚えのある、ホッとする声の持ち主。
思わず泣きそうになって、振り返った。
「まゆみ!」
振り返ると、やはりこちらもまた腕を組んだ、まゆみの姿が目の前にあった
「ハイブリッジ、来たでしょ?」
「えっ? 何で、知ってるの?」
すると、まゆみは下唇を少し噛みながら私を見つめた。
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