桜ふたたび 前編
それまで黙ってふたりのやりとりに耳を傾けていたリンは、わずかに眉根を寄せた。

──何? この尻の座りの悪さ。

議員秘書時代、誰よりも優秀だと自負し熱意を持って仕事に取り組んでいたのに、融通の効かない正義感の強さからか、同僚のみならず議員からも度重なるハラスメントを蒙った。
雨の演説会場でひとり後片付けに残され、惨めさに涙したあの日、何度か有力者のパーティーで見かけたジェイから声をかけられなければ、裁判に勝訴することも今の生活を手に入れることもなかっただろう。

あれから8年。彼は24時間常にビジネスモードの人間だから、デートの席に呼びつけられることなど珍しくもないが、だがしかし、こんなに気の緩んだ彼を見たことがない。

時間の流れが生ぬるい。決して他人に妥協することのない彼が、その流れに乗り遅れた者は容赦なく切り捨てて行く彼が……。

何よりも、嫌みのない彼の笑顔など、シュールすぎて気味が悪い。

彼の交際条件は、仕事上のメリットだ。情報収集と人脈作りが重要で、そこに愛や情は必要ない。
しかし、リンの頭の中に収蔵された膨大な紳士録に彼女は見当たらない。どう逆さまにしてみても、凡庸を絵に描いたようなこの女性に、利用価値があるとも思えないのだが、何か特殊な事情をもっているのだろうか。

──いや、まさかこの歳になって青臭い恋愛を?

にわかには信じがたいが、最近の不可解なスケジュール変更に加え、空港での名作映画のようなラブシーンを目の当たりにしては、彼のプロファイルをアップデートする必要があるのかもしれない。

リンは澪を一目した。そのブラウンの瞳に、不吉を予感した不穏な色が浮かんでいた。



テーブルに黒い中国服のボーイがやって来て、ジェイにそっと耳打ちをした。スイッチが入ったように彼の表情が消え失せ、彼は躊躇いもみせず席を立った。

ホールに現れたのはマオカラーの初老の男。ジェイに向かって満面の笑みで両手を広げている。
張浩宇。上海の不動産大手会長。
続いて現れた黒いドレスの長身の女は、陳子涵。香港の大手投資会社会長。
香港と上海の株式市場のキーパーソンが、東京で密会とは穏やかではない。

リンは、ジェイを先頭にVIPルームへ向かう一行を目で追った。

──仕掛け人はジェイか。

どうりで他に客がいないわけだ。
ロス到着時にはここへの来店は決まっていたから、事故の情報が入ってすぐに根回ししたのか。ニューヨーク市場の混乱に乗じて、何か画策しているのだろう。アクシデントさえ逆手に取る。さすが抜け目ない。
< 103 / 305 >

この作品をシェア

pagetop