桜ふたたび 前編
──面倒なことになった。
ジェイは、授与式のようにいつまでも両手を伸ばしている女将に、短息した。
あれは桜が見させた気の迷い。あのとき桜の下に澪の姿を見なければ、先斗町のことなど思いつきもしなかった。彼女が子どもへの未練を持たなかったように、自分も生母の存在を葬り去っている。
しかし、澪に懇願するような潤んだ瞳で見つめられては、弱い。これを世間では惚れた弱みと言うのか。
仕方ないと開いた封筒に収められていたのは、一枚の写真だった。変色し四隅がぼろぼろになっている。
そこに写る人物に、ジェイははっとした。読みかけの本を手に振り返り笑顔を向けている。いつ撮られたものなのか、それは紛れもなく、英国で過ごした幼い日の自分だった。
撮影者は叔母だ。
誤って閉じ込められた小屋が失火するという事故のあと、ロンドンに迎えてくれたのも彼女だ。名門イートン校出身の彼女の夫に、プレックスクール入学までの後見人をさせるという、祖父の企みに逆らえなかったというのが真相だろう。(結局、3ヶ月も経たぬうちに、ホテルへ移されることになったのだが、2人の従姉たちの構いたがりに辟易していたジェイには、もっけの幸いだった)。
おそらく彼女は、15歳の夏に起きた兄弟喧嘩の顛末を知っている。
一族の中で唯一、他者に対する思いやりや慈しみを有するひとで、ジェイの元にある生母の写真も、16歳の誕生日に彼女からこっそり贈られたものだ。
そういう情けはかえって酷だとは、思いもせずに。
ジェイはじっと写真を見つめた。所々に滲みているのは、母の涙か。会えぬ我が子への愛着に流した、後悔の跡だろうか。
ふいに哀憐の情が湧いた。だがそれは、母親を思慕する気持ちとは異なる感情だ。
彼女から生後間もない赤ん坊を略奪した首謀者は祖父だ。
AXの礎を築いた英傑だが、その分、闇は深い。ジェノヴァで隠居生活をしながらも院政を敷き、誰も彼の意に背くことはできなかった。きっとあらゆる手段を講じて、ゾウがアリを踏みつぶすが如く完膚なき迄に相手を押さえ込んだに違いない。
事情を理解したうえで、それでも母が子を捨てた事実は重い。
裏を返すと、角張った筆で、たどたどしいローマ字の住所が書き記されていた。
──亡くなっていたか。
哀しみはなかった。短い人生だったが、最良の伴侶を得て幸せだっただろう。
そう安堵している自分に気づいたとたん、心の囲いがふと外れ、そこから熱いものがこみ上げて来るのを感じた。
──ああ、彼女は死んだのだ。
「ありがとう」
呟くような感謝の言葉は、女将にではなく、亡くなった母親へ手向けられたように、澪には思えた。
ジェイは、授与式のようにいつまでも両手を伸ばしている女将に、短息した。
あれは桜が見させた気の迷い。あのとき桜の下に澪の姿を見なければ、先斗町のことなど思いつきもしなかった。彼女が子どもへの未練を持たなかったように、自分も生母の存在を葬り去っている。
しかし、澪に懇願するような潤んだ瞳で見つめられては、弱い。これを世間では惚れた弱みと言うのか。
仕方ないと開いた封筒に収められていたのは、一枚の写真だった。変色し四隅がぼろぼろになっている。
そこに写る人物に、ジェイははっとした。読みかけの本を手に振り返り笑顔を向けている。いつ撮られたものなのか、それは紛れもなく、英国で過ごした幼い日の自分だった。
撮影者は叔母だ。
誤って閉じ込められた小屋が失火するという事故のあと、ロンドンに迎えてくれたのも彼女だ。名門イートン校出身の彼女の夫に、プレックスクール入学までの後見人をさせるという、祖父の企みに逆らえなかったというのが真相だろう。(結局、3ヶ月も経たぬうちに、ホテルへ移されることになったのだが、2人の従姉たちの構いたがりに辟易していたジェイには、もっけの幸いだった)。
おそらく彼女は、15歳の夏に起きた兄弟喧嘩の顛末を知っている。
一族の中で唯一、他者に対する思いやりや慈しみを有するひとで、ジェイの元にある生母の写真も、16歳の誕生日に彼女からこっそり贈られたものだ。
そういう情けはかえって酷だとは、思いもせずに。
ジェイはじっと写真を見つめた。所々に滲みているのは、母の涙か。会えぬ我が子への愛着に流した、後悔の跡だろうか。
ふいに哀憐の情が湧いた。だがそれは、母親を思慕する気持ちとは異なる感情だ。
彼女から生後間もない赤ん坊を略奪した首謀者は祖父だ。
AXの礎を築いた英傑だが、その分、闇は深い。ジェノヴァで隠居生活をしながらも院政を敷き、誰も彼の意に背くことはできなかった。きっとあらゆる手段を講じて、ゾウがアリを踏みつぶすが如く完膚なき迄に相手を押さえ込んだに違いない。
事情を理解したうえで、それでも母が子を捨てた事実は重い。
裏を返すと、角張った筆で、たどたどしいローマ字の住所が書き記されていた。
──亡くなっていたか。
哀しみはなかった。短い人生だったが、最良の伴侶を得て幸せだっただろう。
そう安堵している自分に気づいたとたん、心の囲いがふと外れ、そこから熱いものがこみ上げて来るのを感じた。
──ああ、彼女は死んだのだ。
「ありがとう」
呟くような感謝の言葉は、女将にではなく、亡くなった母親へ手向けられたように、澪には思えた。