桜ふたたび 前編
澪は母が憎む女性に一度だけ会ったことがある。曾祖父の三回忌のすぐ後だった。

音楽家の彼女の住まいは、国立の緑に囲まれた小さくモダンな一軒家だった。
稲山が買い与えたのだと、母が忌々し気に言っていたけれど、父親の面子のために故郷へ戻れない娘へのせめてもの贖罪だと、汲み取ることもできない母が、澪には哀しかった。その大元を作ったのは母なのだから。

芝庭の見えるリビングで、テーブルを挟んで母と対峙していた彼女は、カチューシャで前髪を上げたナチュラルロング、爽やかな白シャツに履き古したジーンズ姿はスマートで、今はもう顔を思い出せないけれど、眉の太い細面の、情熱を知性で柔らかく包み込んだような大人の女性だったと思う。

母の方が美人だと澪は思った。
花柄のワンピースに包んだ体はグラマラスで手足が長い。豊かな黒髪、丸顔で彫りが深く、二重のパッチリとした眼にぽってりとした唇。南国美人特有の顔立ちだ。

その横顔が、庭の物干しで熊の絵柄のパンツとトランクスが仲良く風に揺れているのを見つけて、般若のような形相に変わったのを、覚えている。

澪の傍らで、髪を二つに結んだ子どもがクレヨンでお絵描きしていた。
あのとき、母が璃子の家に乗り込んだのは、この子の存在を確認するためだ。
悠斗と3ヶ月違い、早生まれだから学年は1年上になる。

どんなに周囲がひた隠しにしていても、猜疑心の強い母はとうに気づいていた。だから、一度は捨てた娘を呼び戻すことで、夫の関心を向けようとしたのだ。完全な失敗だったけれど。

〈これ、ママ、これはパパ!〉

悠璃の屈託のない笑顔を見ていると、父が可愛がるのは当然だと思った。父が澪を避けるのは、手元に置いてやれない悠璃に対する心苦しさもあったのかもしれない。

それに、子どもから見ても、璃子は聡く魅力的だった。卑屈に罵り続ける母を見つめる哀しげな目に、とても申し訳なく恥ずかしかったことを覚えている。
そんな風に冷めた感想を抱く子どもは、やはりかわいげがないのだと思う。

大人たちの話し合いはあっという間に終わった。
立ち上がった母は一言澪の名を呼んだきり、振り返りもせず駅への長い坂道を怒りにまかせて下って行った。
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