桜ふたたび 前編
「おおっ、いらっしゃい」

丸坊主の大将が、驚きと懐かしさが混ざった笑顔で澪に声をかけた。笑うと垂れ目がいっそう垂れて、パンパンに張った腹といい大黒様のようだ。

柚木はカウンターの椅子を引きかけて、思い直したように反対側の小上がりに靴を脱いだ。座卓が2席あり、右側が、昔、ふたりの指定席だった。

「緊張するなぁ。初めて澪を誘ったときみたいや」

おしぼりで手を拭いながら、柚木は照れ笑った。つられて澪も、口端を上げた。

「彼氏と、うまくいってる?」

「え?」

「指輪、この間も大事そうにしてたから」

澪はあっと右手で左手を覆って、面映そうに微笑んだ。

「そんな表情もできるようになったんやなぁ」

柚木は安堵と寂しさが混ざった顔をした。

「何をしているひと?」

澪は少し考えて、

「外資系の企業に勤めています」

「そう、優秀なんや。……ほんまはな、会えるんやないかと期待して、あそこを通ったんや。いい恋をしてるみたいでよかった。安心した」

柚木の柔らかな眼差しに、澪は表情を強張らせた。

──なぜ、そんなに優しい声で言うの? わたしを許さないで。

澪は自らに咎を与えることで、今まで心の均衡を保ってこられたのだ。耐えがたい後ろめたさから、自分に足枷をかけることで、楽になろうとしていた。
それを、いきなり鍵を外されてしまったら、方向もわからず蹲るしかない。

「もう忘れなさい」

澪は言葉の代わりに頭を垂れて小さく首を振った。

忘れてはいけない。忘れられるはずがない。
澪は時間が遡っていく感覚を覚えていた。
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