桜ふたたび 前編
いっとき沈黙があった。次の放電へのエネルギーを溜めこむように、空気がピシピシと小さな霹靂を飛ばしている。
耐え切れずに柚木が口を開いた。

「わかった、あとは家で話そう。少し、考える時間が欲しい」

「あなたのご両親」

低く呪うような声に澪は凍りついた。一瞬、心臓が止まったかのようだった。

「娘が勤め先の社長の娘婿と不倫して、妊娠したやなんて知ったら、さぞショックやろね。サッカーのお上手な弟さんの将来にも、傷がつかへんかったらええけど──」

「もうこれ以上、澪を責めないでくれ……。悪いのは僕やさかい」

「いけない」と、澪は心の中で叫んだ。
自分は何と罵倒されようと構わない。彼女の怒りは当然だから。けれどいま澪を庇えば、怒りの収拾がつかなくなる。言葉でぶつけられなくなったエネルギーは、危険な行動を引き起こしかねない。

澪は紗子を見た。どす黒い恨みのこもった凄みのある目に、母の目が重なった。

紗子はゆっくりと立ち上がった。無言で台所へ向かう。
柚木と香子が胡乱な表情で見守るなか、彼女は水切りかごから洗ったばかりの包丁を抜き取り、固く両手で握った。

「やめろ」「サエちゃん、落ち着いて」

飛び上がるように立ち上がったふたりの声が震えている。

「あなたを取り戻すためなら、私は何だってする」

彼女の声も震えていた。

澪は、どこか遠い感覚で状況を見つめていた。
切っ先は天を向いている。彼女はいったい誰を弑するつもりでいるのだろう。奪ったものなのか、奪われたものなのか、自分自身なのか、と。

「子どもなんか産ませない」

──ああ、この子なのか。

「頼む、それを置いてくれ」

冴子はじりじりと澪との距離を縮めてくる。澪は尻を送って後退んだ。
腕を伸ばせば届く間合いに、身動きできずに澪が目を瞑ったとき、

「わかった! 言う通りにするから、やめてくれ〜!」

悲鳴のような懇願に、魂が抜けたように紗子の手から包丁が滑り落ちた。
トンという音と共に、彼女はその場で崩れた。

「サエちゃん!」

床に顔を伏した紗子を香子が抱きしめた。柚木は胸をつかれたように紗子を見つめている。気位が高い彼女が、泣いていた。

目の前に落ちた刃先に、澪はただ、一刻も早くこの部屋から彼らが立ち去ることだけを願っていた。
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