桜ふたたび 前編
〈僕には澪の心がわからない。僕を愛していたんやろうか?〉

そう最後に呟いた柚木の悲痛な表情を思い出すたび、澪は今も自問自答して苦しくなる。

愛と思ったから、背徳感と自己嫌悪に喘ぎながらも進んできたのに、愛しているのかという問いの前で、澪は立ち往生してしまったのだ。

いつか離婚して故郷の丹波へ一緒に帰ろうと、柚木は言った。澪となら子どもがなくても幸せな家庭を築けると。

けれど、彼の立場や事情、性格を慮れば、不可能なことはわかっていた。
彼が離婚によって失うものは多すぎる。会社を逐われることは無論のこと、これまで構築してきた人間関係を踏み潰され、莫大な慰謝料を請求されて、きっと澪への愛情を後悔する。

だから妊娠を告げることができなかった。
彼の穏やかな眼差しが、苦悩に変わるのを見るのが恐ろしかった。優しい彼に残酷な言葉を言わせたくなかった。
それならば、何も言わずに柚木と別れ、ひとりで子どもを産み育てようと、心に決めた矢先の出来事だった。

あのとき澪は、柚木から別れを切り出されることを待っていた。
なのに彼は、ひどく混乱していたとはいえ、不倫を清算しようとは露とも考えていなかった。ふたりを先に帰し、妻の狼藉を詫び、すぐに他の住まいに移ろうと言った。

不思議なのは、嬉しいという感情が少しも湧いてこなかったということだ。

子どもだった澪は、父と年齢の近い柚木に父親の愛情を求めていたのだと思う。
あの冷たい家から逃げ出したくて社会人として独立することを選んだけれど、初めてのひとり暮らし、初めての大人だけの社会、慣れない生活は不安で夜がこわかった。人と関わりたくないと思いながら、心の底では誰かとの絆を求めていたのかもしれない。

会社は男性が多い業種で、片手ほどの女性もみな20代後半から40代前半。当然話は合わない。そのうえ、まわりの男性たちが若い澪をあれこれと構うものだから、よけいに澪に対する風当たりは強くなった。

空気になることには慣れていたけれど、学校と違い小さな集団では、空気さえもお目汚しになってしまうらしい。身に覚えのない悪口や除け者という陰湿ないじめに、精神的にまいっていたとき、優しく声を掛けてくれたのが、柚木だった。
彼とすれば、高卒採用に反対する人事部長を説得して、美術部だったからと言う理由だけで澪を採用した責任を感じていたのだろう。彼自身も若い頃は絵描きを目指していたと聞いたから。

恋愛の意識も自覚もなく、ただ求められるまま流されるままに男女の関係になり、それを愛だと信じようとしていた。ほんとうは、心の底にはいつも、白々としたものが流れていた。

だから、命を授かったと気づいたときも、愛するひとの子だという意識はまったくなかった。
紗子の妊娠を聞かされても、何も感じなかった。あんな修羅場を経験しても、子どもを諦めようとは思わなかった。

澪は、自分が望んで得られなかったものを、子どもに託そうとしたのかもしれない。
この子が愛を知れば、自分も愛を知る。幸福であれば、自分も幸せになれる。

そんな身勝手な思いが、まわりを不幸のどん底へ突き落とすとは考えもせずに……。
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