桜ふたたび 前編
「はい、本日の突き出しは、菜の花の御浸しと飯蛸の炊いたん。澪ちゃん、お飲み物はどうしはる?」

女将そっくりの糸目糸眉毛をいっそう細め、笑顔を向けるのは大将の慎一だ。
鴉天狗のようなシュッとした清潔な塩顔。板前姿も粋だけど、きっと着物も似合いそう。
彼を、〈大将〉と呼ぶのは女将くらいで、常連客からは〈ぼん〉、千世からは〈シンちゃん〉と親しみを込めて呼ばれている。
千世によれば、31歳・彼女なし。生粋の祇園っ子で、幼い頃から父親に厳しい料理指南を受け、京都の老舗料亭で修業を積み、5・6年前に父親が亡くなったのを機に店を継いだ、らしい。

「あ、ええっと、じゃあ、生ビールで」

「で……そちらさんは?」

慎一までもが遠慮がちに澪に訊ねる。
とたん、隙だらけの脇腹に肘の襲撃を受け、澪は息を詰まらせ身をよじった。そのとき、

「Good evening, Sir. Here’s a appetizer.(こんばんわ、こちら前菜です)」

澪と千世は、シンクロして欹てた目を女将へ向けた。

「Would you like something to drink?(お飲み物はいかがしますか?)」

間髪入れず、

「女将さん、英語できはるの!?」

女将は白魚の手をおちょぼ口にやって、

「そないに大層な……。これからはインバウンドがなんたらや言わはって、組合長はんの発案で、皆さんとすこうしお勉強さしてもろうてますのんえ」
「すばらしい!」

最悪だ。
通訳者を手に入れて、千世の暴走は目に見えている。つき合わされる女将の迷惑を思うと、本当に心苦しい。

それより問題なのは彼の態度。女将が一生懸命たどたどしい英語で料理の説明をするのを、カウンターに片肘ついた手に顎をのせ、涼しい顔で聞いている。
澪の視線を察したのか、男の口角がかすかに上がった。

──このひと……。
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